
田中康夫の新作『33年後のなんとなく、クリスタル』(河出書房新社)を読みました。また、この機会に、『なんとなく、クリスタル』(河出文庫)も読み返してみました。
『なんとなく、クリスタル』が刊行されたのは1981年で、私がこの作品を最初に読んだのは、まだ九州にいた頃です。そのためか、当時はそれほどの感銘は受けませんでした。もちろん、メディアでは大きな話題になりましたが、田舎暮らしの私にはピンときませんでした。
私が再度上京して、六本木にあるポスターやポストカードを輸入する会社に勤めはじめたのは1986年で、『なんクリ』から5年後のことです。それで、今あらためて『なんクリ』を読むと、最初に読んだときとまるで違った印象がありました。
主人公の由利は、青学に通いながらモデルの仕事をしているのですが、当時、私もモデルをしていたガールフレンドがいて、六本木や青山界隈でよく遊んでいましたので、『なんクリ』のような”時代の気分”と無縁ではありませんでした。しかし、やがてバブルが崩壊し、社会の様相は一変します。
『なんクリ』は、大学のテニスクラブの仲間と一緒に表参道をランニングする由利のつぎのようなシーンで終わります。
私は、クラブの連中と一緒に走り出した。早苗も私の横で掛け声を出しながら走っている。
青山通りと表参道との交差点に近付いた。
ちょうどその時、交差点のところにある地下鉄の出口から、品のいい女の人が出てくるのが見えた。シャネルの白いワンピースを、その人は着ているみたいだった。フランスのファッション雑誌に載っていた、シャネルのコレクションと同じものだったから、遠くからでもすぐにわかった。
横断歩道ですれ違うと、かすかにゲランの香水のかおりがした。
三十二、三歳の素敵な奥様、という感じだった。
〈あと十年たったら、私はどうなっているんだろう〉
下り坂の表参道を走りながら考えた。
(略)
私は、まだモデルを続けているだろうか。
三十代になっても、仕事のできるモデルになっていたい。
〈三十代になった時、シャネルのスーツが似合う雰囲気をもった女性になりたい〉
私は、明治通りとの交差点を通り過ぎて、上り坂になった表参道を走り続ける。
手の甲で額の汗をぬぐうと、クラブ・ハウスでつけてきた、ディオリッシモのさわやかなかおりが、汗のにおいとまざりあった。
ところが、小説が終わったあと、つぎのページに唐突に、「人口問題審議会・出生力動向に関する特別委員会報告」の合計出生比率(一人の女子が出産年齢の間に何人の子供を産むかという比率)の予想値と、「五十四年度厚生行政年次報告書(五十五年度厚生白書)」の六十五歳以上の老年人口比率と厚生年金保険料の予想値が添付されているのでした。
『33年後のなんとなく、クリスタル』は、字義通りその33年後の話です。ただ、『33年後』には、『なんクリ』にはいなかった「僕」=「ヤスオ」が登場します。その「僕」がFacebookで由利と久しぶりに再会するのでした。
『33年後』と『なんクリ』の違いは、「僕」=「ヤスオ」の登場だけではありません。『なんクリ』で話題を呼んだ「注釈」もかなり違っています。『なんクリ』のそれは、東京の最先端の風俗を批評するものでしたが、『33年後』のそれは、社会・政治的な事柄に関するものが多く含まれていました。そこには、言うまでもなく『なんクリ』以後、阪神大震災のボランティアを経て政治の世界に足を踏み入れた著者の体験が反映されているのでしょう。
私は、『なんクリ』の解説(河出文庫版)で高橋源一郎が書いているように、現代風俗を批評することをとおして爛熟した資本主義社会の現在(いま)を対象化した作者の姿勢に共感するところがありますし、その「注釈」の真骨頂とも言うべき『噂の真相』に連載されていた「東京ペログリ日記」を愛読していましたので、『33年後』の”生真面目さ”に対しては、どこか違和感を覚えざるをえませんでした。
既に50代後半になった『なんクリ』の登場人物たち。私は、もう一度、初老の域に入った「ペログリ日記」を読みたいと思いました。高橋源一郎は、解説のなかで、『なんクリ』はマルクスの「資本論」に比肩するような書物だと書いていましたが、私は、「ペログリ日記」こそ永井荷風の「断腸亭日乗」に比肩するような日記文学の傑作になるように思うのです。
出生率は政府の甘い予想をあざ笑うかのように低下の一途を辿り、少子化が進んでいます。また、一方で、老年人口比率は急カーブを描いて上昇し、超高齢化社会を迎えています。
私が現在住んでいる東横線沿線の街でも、平日の昼間の商店街の舗道は老人の姿が目立ちます。カートを押して背を丸めおぼつかない足取りで舗道を歩いている老人たち。三つある商店街のひとつは既に解散し、街灯の管理をどうするか頭を悩ましているそうです。それが、かつてANAの女子寮があった街の現在の姿です。
〈あと十年たったら、私はどうなっているんだろう〉と思っていた由利は、33年後、つぎのように言います。
「『微力だけど無力じゃない』って言葉を信じたいの」。醍醐での由利の科白が頭を過る。
「黄昏時って案外、好きよ。だって、夕焼けの名残りの赤みって、どことなく夜明けの感じと似ているでしょ。たまたま西の空に拡がるから、もの哀しく感じちゃうけど、時間も方角も判らないまま、ずうっと目隠しされていたのをパッと外されたら、わぁっ、東の空が明るくなってきたと思うかもしれないでしょ」
由利は悪戯っぽく微笑んだ。
いくら中国や韓国に対して意気がってみせても、日本がたそがれていく国であることには変わりがありません。私たちは、もっとその事実を直視すべきではないか。誤解を恐れずに言えば、絶望することの意味を知る必要があるのではないか。自分の人生を含めて、もっと生きる哀しみやせつなさを大事にすべきではないか。
武田泰淳は、『目まいのする散歩』(1976年)のなかで、最新のファッションで表参道を闊歩する若者たちを見て、「何と沢山の苦悩が、そのあたりの空気に浮遊していることだろう」と書いていましたが、そうやって表参道を闊歩していた若者たちも、もう60歳前後です。そのうち「高齢化」と「貧困」の苦悩を背負うことになるはずです。時は容赦なくすぎていくのです。
背を丸めおぼつかない足取りで舗道を歩く自分の姿なんて想像したくもないですが、それも遠い先の話ではないのです。老いることは、たしかにたそがれることかもしれませんが、しかし、この小説が書いているように、「誰(た)そ彼」=黄昏にも静かに時を見つめるロマンティックな響きだってあるのです。あるはずなのです。