
『33年後のなんとなく、クリスタル』では、『なんとなく、クリスタル』で暗示された高齢化社会の現実が登場人物たちの会話のなかにも出てきますが、私のまわりでも、みんな大なり小なり親の高齢化や介護の問題を抱えています。老人福祉施設に入っている親も多く、親が亡くなったという話もよく聞くようになりました。
友人のなかには、老いた親の面倒を見るために仕事を辞めて田舎に帰った者もいます。施設に面会に行っても、認知症になった母親はもう自分のことがわからなくなっていて、そんな親の顔を見るのがつらいよというような話を聞くと、昔、友人の家に遊びに行ったらいつも笑顔で歓待してくれたお母さんの顔が思い出されて、せつない気持になります。あの頃、私たちの親はみんな若くて元気でした。
かく言う私の母親も末期ガンのためホスピス病棟に入院しているのですが、いよいよ危ないという連絡がありました。話すことはできないけどまだ意識はあるというので、意識があるうちに最後に声をかけておきたいと思い、近日中に帰省する予定です。
これはよくある人生の風景(出来事)です。でも、ひとりひとりにとっては、切実な個別具体的な出来事なのです。それは、死だけでなく仕事も恋愛も結婚も同じでしょう。私たちが生きている場所は、きわめて凡庸な場所です。しかし、その凡庸さのなかにひとりひとりの個別具体性があるのです。凡庸を凡庸で終わらせるのではなく、そういった凡庸な場所に、個別具体性をどれだけ浮かび上がらせることができているかが私にとっての”いい小説”、感動する小説の条件です。
陳腐な言い方ですが、人生はなんと哀しくてせつないんだろうと思います。私たちは、黄昏のなかで、生きる哀しみやせつなさとしっかり向き合うことが大事なのだとしみじみ思います。私たちの苦悩は、そんな凡庸な場所にしかないのですから。しょうがない。そう自分に言い聞かせている自分がいます。
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