新年あけましておめでとうございます。

今年の正月は、ちょっと暗い気分ですごしています。昨日の大晦日も、年越しのイベントがおこなわれている赤レンガ倉庫や大桟橋に行こうかと思ったのですが、やはり気分が乗らず、結局、家で紅白歌合戦を観てすごしました。でも、紅白歌合戦はぜんぜんつまらなかったです。中森明菜も松田聖子も期待外れでした。

唯一、サザンの「ピースとハイライト」が痛快だったくらいです。

都合のいい大義名分(かいしゃく)で
争いを仕掛けて
裸の王様が牛耳る世は…狂気(Insane)
20世紀で懲りたはずでしょう?


案の定、「ピースとハイライト」によって、桑田佳祐はネトウヨたちから「在日」認定され、「反日」だ「極左」だとさんざんの叩かようですが、まさに今、私たちの前にあるのは、そんな「狂気」の時代なのです。

そういえば、天皇陛下も「新年の感想」のなかで、今年が戦後70年の節目に当たることをあげて、「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」と述べていましたが、これもまた「裸の王様が牛耳る世」を念頭においた発言であるのはあきらかでしょう。ナチスの例をあげるまでもなく、”カルト化するニッポン”というのは、「狂気」の時代の謂いでもあるのです。

私は、死の淵をさまよっている母の顔が未だ瞼の裏に焼き付いたまま離れません。スー、スーと大きな呼吸をくり返しているものの、それがいつピタリと止むかもしれないのです。それはなんの予告もなしに突然やってくるのです。私たち家族は、まるでその一瞬を見逃すまいとするかのように、一心に母の顔を見つめていました。

そこにあるのは、”絶望”です。でも、その”絶望”のなかに、まぎれもなく人生の真実があるのでした。

私たちは、母の顔を見つめながら、いつの間にか母に関する思い出話をしていました。それは、母に関する思い出であると同時に、私たち家族の思い出話でもあります。なんだか死の間際にいる母を前にして、私たちはホンの一時子どもの頃に戻ったかのようでした。

何度も同じことをくり返しますが、私たちは、生きる哀しみやせつなさをしっかり見つめることが大事なのだと思います。戦地にいる弟に、「君死にたまふことなかれ」と詠った与謝野晶子のように、「狂気」の時代に対置できるのは、生きる哀しみやせつなさを見つめる(人として当たり前の心のあり様である)個の論理だけなのです。私たちに必要なのは、「狂気」に動員される”政治のことば”ではなく、自分自身の胸の奥にある”私のことば”なのです。
2015.01.01 Thu l 日常・その他 l top ▲