芸能プロダクション・石井光三オフィス会長の石井光三氏が、今月6日、肝内胆管ガンで亡くなっていたことがあきらかになりましたが、私は石井社長とは一時よく顔を合わせていた時期がありました。

と言うのも、以前、私の取引先の店が渋谷の東急プラザのなかにあったのですが、近所に事務所があった石井社長もその店にしょっちゅう来ていて、店で会っているうちにいつの間にか顔なじみになったのでした。

店の女の子たちは、石井社長のことをそのまま「石井社長」と呼んでいました。石井社長は、テレビと同じように、関西弁の大きな声で冗談を言ってはよく女の子たちを笑わせていました。ちょうど常盤貴子とドラマで共演していたときで、女の子たちに頼まれて常盤貴子のサインをもらってきたりしてました。

「今度シモキタの本多劇場でコント赤信号の公演があるんで、来て~な」と言ってチケットをくれたこともありました。私はあいにく都合が悪くて行けなかったのですが、店の女の子たちは差し入れを持って行ったそうです。

石井社長の訃報に際して、渡辺正行は、「俺たち以上に良くしゃべり、良く動き、取引先に行っては、『赤信号よろしくお願いします!』と、俺たちが恥ずかしくなるような大声で営業し、仕事で出た弁当は、必ず持って帰る。帰る時、楽屋の台本・ごみは、必ず持って帰る…いろいろな事を教えてくれた」(日刊スポーツ 渡辺正行「家族のように」石井氏悼む)と言ってましたが、石井社長の人となりをよく表したコメントだと思いました。

ある日の夕方、渋谷駅から東急プラザのほうへ横断歩道を渡っていると、前方から聞き覚えのある関西なまりの声が聞こえてきました。石井社長が東急プラザの前の舗道で、通行人にチラシを配っていたのでした。冬の寒い日でしたが、石井社長は白い息を吐きながら、「コント赤信号の公演があります。観に来てください。よろしくお願いします!」と声を張り上げて道行く人にチラシを手渡していました。それこそ渋谷の人ごみのなかでは「恥ずかしくなるような大声」でした。

私は、それを見て「すごい人だな」と思いました。ラサール石井も「絶対に超えられない人です」とコメントしていましたが、その気持はよくわかります。魑魅魍魎が跋扈するやくざな世界で生きていくのは大変だったでししょうが、そんななかで純粋さと信念を失うことなく持ちつづけていたと言っていいのかもしれません。
2015.01.20 Tue l 訃報・死 l top ▲