
3泊4日で九州に帰省していたのですが、どうやら風邪を持ち帰ったみたいで体調がすぐれません。
今回は、四十九日の法事のために帰省したのですが、時間的にも余裕がありましたので、田舎の旧友たちと会うこともできました。
みんな、仕事や家庭などにそれぞれ事情を抱えて生きています。特に田舎特有の人間関係に苦悩している様子でした。以前は、「東京に行ってどうするんだ?」と言っていた彼らが、今は逆に「お前が羨ましいよ」「田舎を出て正解だったよ」なんて言う始末でした。要は、田舎のわずらわしい人間関係のなかで生きていくか、都会で孤独に生きていくか、どっちかなのです。
「田舎に帰るつもりはないのか?」と聞かれたので「帰るつもりはない」と答えましたが、だからと言って私にも今の生活に明確なビジョンや思いがあるわけではないのです。むしろ「田舎が嫌だから」という消去法で、「帰るつもりはない」と言っているにすぎないのです。
菩提寺の境内にある実家の墓がかなり傷んでいるので、修復することになったのですが、私はこの墓に入ることはないかもしれないと思いました。修復のために、墓のなかから祖父母と父の骨壷を取り出した際、中の遺骨を手に取って、これで思い残すことはないなと思いました。
法事の翌日もレンタカーを借りて、なつかしい場所やなつかしい人たちを訪ねてまわりました。田舎には滝廉太郎の「荒城の月」の舞台になった有名な城跡があるのですが、久しぶりに石垣に囲まれた山城の跡に上りました。
平日の午後でしたので、ほかに観光客の姿はなく、私はハーハー息を吐きながら石の階段を上りました。考えてみれば、小中学校の頃、「滝廉太郎音楽祭」という催し物には毎年参加していたものの、こうしてゆかりの城跡に上ったのは1度か2度あるくらいです。
誰もいない、ホントに寂寥とした風景のなかに私はいました。途中の石段に、結婚する前なのか結婚直後なのか、若い母がひとりで立って遠くを見つめている写真が我が家にありました。それは、趣味が高じて写真館をはじめた父が撮った写真でした。私は、その写真を思い浮かべながら同じ場所でシャッターを押しました。
城跡の上に行くと、滝廉太郎の銅像がありました。銅像の背後には、子どもの頃からずっと見つづけていたなつかしい山の風景がありました。我が家の裏庭からも同じ風景が見渡せ、子どもの頃、私たちはいつもその風景に抱かれながら過ごしていたのです。
私はふと思いついて、城跡の上から地元に残っている旧友に電話をしました。彼は、「エエッ!」と素っ頓狂な声をあげていました。「家に来いよ」と言われたのですが、記憶が曖昧な上に道路も新しくなっていたりと、いまひとつ道順がわかりません。それで、彼が城跡の下の駐車場まで迎えに来てくれることになりました。
山を下ると、既に旧友は駐車場で待っていました。駐車場には、私と彼の車しかなく、車の横にぽつんと立っていた彼の影が、午後の日差しを受けてアスファルトの上に長く伸びていました。そのときも、私は、彼とこうして会うのもこれが最後かもしれないと思ったのでした。実は、その前に私は、市役所に寄って、自分の本籍を今の住所に移すための「分籍」の手続きをしていたのでした。
こうして田舎の風景のなかにいても、私はどこか田舎から疎外されている自分を感じていました。私は、田舎が嫌で嫌でしょうがなかったし、今もその思いに変わりはありません。だから、なつかしい風景やなつかしい人たちは、よけい哀しいようなせつないような存在として私のなかに映るのでした。







