
昨日の夕方、春節の中華街に行ったのですが、平日だからなのか、思ったほど人出はなく、通りの店を覗いてもどこか手持無沙汰な様子でした。と言っても、食事に行ったわけではありません。近くに用事があったので、ついでに華正樓に肉まんを買いに行っただけです。
人盛りができているのは、テレビの影響なのか、店頭で小籠包を食べることができるような店ばかりでした。観光客たちは、発泡スチロールの器に入った小籠包を箸でつつきながら、頬をすぼめて食べていました。
そのあとは、伊勢佐木町まで歩いて、有隣堂で鈴木涼美著『身体を売ったらサヨウナラ』(幻冬舎)を買いました。この本は売り切れになっている書店が多かったので、やっと買えたという感じでした。
平日の夕方、横浜の街を歩いていると、たしかに、巷間言われるように、横浜はおしゃれな娘(こ)が多いなと思います。どうしてかと言えば(身も蓋もない言い方になりますが)、自宅通勤の娘の割合が高いからです。つまり、可処分所得の高い女の子が多いからです。そして、若い女性の可処分所得が高い街は、これは名古屋なども同じですが、”デパート率”=「お買い物はデパート」の意識が高いという特徴があります。横浜の場合も、横浜そごうや業界で「横高」と呼ばれている横浜高島屋の存在は、傍目で見る以上に大きいのです。
『身体を売ったらサヨウナラ』の著者も、典型的な可処分所得の高い女性のひとりです。実家は鎌倉で、両親は大学教員で、明治学院高から慶応、さらに東大の大学院に進んだお嬢様。でも、元キャバ嬢で元AV女優で元新聞記者。
まだ読みはじめたばかりですが、フィールドワークの手法を宮台真司に学び、生き方の基本と文章の書き方を鈴木いづみに学んだようなこの本は、その速射砲のような文体と相まって、ひさびさに面白い本に出会ったという感じです。
『身体を売ったらサヨウナラ』は、つぎのような疾走感のある文章ではじまり、読者は冒頭から一発パンチを食らったような感覚になるのでした。
広いお家に広い庭、愛情と栄養満点のご飯、愛に疑問を抱かせない家族、静かな午後、夕食後の文化的な会話、リビングにならぶ画集と百科事典、素敵で成功した大人たちとの交流、唇を噛まずに済む経済的な余裕、日舞と乗馬とそこそこのピアノ、学校の授業に不自由しない脳みそ、ぬいぐるみにシルバニアのお家にバービー人形、毎シーズンの海外旅行、世界各国の絵本に質のいい音楽、バレエに芝居にオペラ鑑賞、最新の家電に女らしい肉体、私立の小学校の制服、帰国子女アイデンティティ、特殊なコンプレックスなしでいきられるカオ、そんなのは全部、生まれて3秒でもう持っていた。
シャンパンにシャネルに洒落たレストラン、くいこみ気味の下着とそれに興奮するオトコ、慶應ブランドに東大ブランドに大企業ブランド、ギャル雑誌の街角スナップ、キャバクラのナンバーワン、カルティエのネックレスとエルメスの時計、小脇に抱えるボードリヤール、別れるのが面倒なほど惚れてくる彼氏、やる気のない昼に会える女友達、クラブのインビテーション・カード、好きなことができる週末、Fカップの胸、誰にも干渉されないマンションの一室、一晩30万円のお酒が飲める体質、文句なしの年収のオトコとの合コン・デート、プーケット旅行、高い服を着る自由と着ない自由。それも全部、20代までには手に入れた。
(略)
でも、全然満たされていない。ワタシはこんなところでは終われないの。1億円のダイヤとか持ってないし、マリリン・モンローとか綾瀬はるかより全然ブスだし、素因数分解とかぶっちゃけよくわかんないし、二重あごで足は太いしむだ毛も生えてくる。
ワタシたちは、思想だけで熱くなれるほど古くも、合理性だけで安らげるほど新しくもない。狂っていることがファッションになるような世代にも、社会貢献がステータスになるような世代にも生まれおちなかった。それなりに冷めてそれなりにロマンチックで、意味も欲しいけど無意味も欲しかった。カンバセーション自体を目的化する親たちの話を聞き流し、何でも相対化したがる妹たちに頭を抱える。
何がワタシたちを救ってくれるんだろう、と時々思う。
それに対して、川崎の中学生が多摩川の河川敷でリンチされて殺された事件は、言うなれば可処分所得の低い世界の悲劇とも言えます。両親が離婚し、母親に連れられて隠岐の島からやってきた少年が、地元の少年たちの格好の餌食になったのは想像に難くありません。
今話題のピケティが言う「世襲型資本主義」による不平等のスパイラル(格差の世襲化)が、このような悲劇を生み出す遠因になっているのは否定しえない事実でしょう。アイパーとB系ファッション、コンビニの前のうんこ座りと夜の公園の花火、喧嘩上等・夜露死苦・愛羅武勇・愛死天流などバッドセンスなボキャブラリー、EXILEと安室奈美恵、キラキラネームに深夜のドンキ、「劣悪な家庭環境」というリアルな日常、学校に行きたくない、でも働きたくない、でもお金がほしい究極の生活観、「そんなのは全部、生まれて3秒でもう持っていた」ような世界もまた、労働者の街の子どもたちのひとつの現実です。
縦に長い川崎は、「川崎の南北問題」と言われるように、ふたつの世界が南武線というバリアによって隔てられているのですが、一方、横浜は、黒沢明監督の「天国と地獄」で描かれたような丘の上と下という線引きはあるものの、ふたつの世界が混在しているのが特徴です。