身体を売ったらサヨウナラ


若い女性がみずからの身体的な価値(女としての価値)をお金で換算するのは、資本主義社会では当たり前のことです。資本主義とはそういう制度なのです。ゆりかごから墓場までお金なしではなにひとつ手に入れることができないのです。この世のありとあらゆるものは、それこそ一木一草に至るまでお金で換算される、それが私たちが生きる資本主義という社会なのです。

もちろん、”愛”も然りです。”愛”はお金では買えないけど(買えるときもあるけど)、お金をかければ「より煌めく」と著者の鈴木涼美は言います。

 人は愛周辺にオカネがからむと何かと人を批判したがるから、セックスは神聖化するくせに、オカネをもらってすると怒られるし、ホストクラブで何十万円もかけて恋愛ごっこするとほとんど廃人扱いされるし、オカネのためにスキとか言うと、信じられないと言わんばかりのすごい目で睨まれる。でも本当の愛なんて、オカネをかければより煌めくのに。
(鈴木涼美・『身体を売ったらサヨウナラ』幻冬舎)※以下引用は同じ


貪欲な資本主義は、さらに「女子高生」という属性に性的な意味を付与し、お金に換算するようになったのでした。つまり、「女子高生」が記号化し商品になったのです。それは、この社会が「死」をも商品化していることを考えれば、別に驚くことではありません。1983年生まれの著者もまた、そんな「女子高生」が商品化された援交・ブルセラ以後の世代の人間で、最初から自分たちの身体に商品的価値があることを知っているのでした。

際限のない欲望と差異化、その先に待っているのは”特別な自分”です。でも、その”特別な自分”は、たとえホストに入れあげても、イタくない自分でなければなりません。「私たちには、絶対に死ぬまで捨てる気にならない自負がある。私たちの身体は、かつてオトコたちがひと月に何百万円も使う価値があったことだ」と書く著者ですが、一方で、そんな自分を冷静な目で見ることも忘れないのでした。みずからの身体を夜の世界やAVに売って手に入れたお金で、つぎになにを手に入れたいのか。なにを手に入れたのか。それがこの本のキモです。

なんというタイトルだったか、「愛をください」という歌詞の歌がありましたが、私はこの本を読むにつけ、「愛をください」というリフレインが聞こえてくるような気がしました。「女という価値を物質に落として、分裂を繰り返してきた」と著者も書いていましたが、それが資本主義的な価値、言うなれば貨幣の物神性に縛られた私たちの生の隘路でもあるのでしょう。

 私たちは100万ドルの価値がある身体を、資本主義的目的遂行のためにいつでも市場にさらすことができた。それはオカネだけじゃなく、他のものじゃ代えのきかない時間を私たちに与えてくれた。(略)
 問題は、そこで得られるオカネや悦楽が、魂を汚すに値するかどうかであって、いいか悪いかではない。好きな人にゲロを吐かせてまで手に入れたいものだって私たちにはあると思う。言い換えれば、少なくともそれに値すると思えないんであれば、そんなはした金、受け取らないほうがいい。


私は、女三人男一人のきょうだいのなかで育ちましたので、女のわけのわからなさや面倒くささは、子どもの頃から痛いほど感じていました。そして、長じた今、仲がいいのか悪いのかわからない彼女たちが、お互いを批評するその鋭い視点に感心し驚くことが多々あります。関係性を通してしか自己を確認できない女性の同性を見る目は、たとえ姉妹と言えども残酷です。

一流大学を出て一流会社で働いているOLだって、そうでもないOLだって、将来性のある男と結婚した主婦だって、そうでもない主婦だって、ある年齢以下の女性たちは、恋愛や仕事やその他諸々の局面において、大なり小なりみずからの身体的な価値をお金で換算した経験があるはずです。それは、女性のほうがみずからの欲望に忠実で、ゆえに資本主義の原理に忠実だからです。

著者が言うように、みんな「狂っている」のです。下北沢の通りを歩く「文化系女子」も、同僚と結婚して下高井戸に家を買った郵便局員も、「平凡」だけど「狂っている」。そうでなければ、この生き馬の目をぬくような資本主義の世の中を生きぬくことなんてできないでしょう。「愛をください」と人知れず叫びつづけるのも、そこに「狂っている」自分がいるからでしょう。

 たしかにオカネやモノをくれて私を泊めたオトコたちが枕元でささやいたかわいいよ、とかっていう言葉は、私にとって心震える本当の愛、とは程遠いものだけど、だからと言って、別に現金をくれるわけじゃない彼氏が同じ枕元でくれた名もなき熱っぽい詩がまさにそうであるかというと微妙だ。でも、複雑にこんがらがった社会で、カメラの前で悩ましげなポーズをしていた過去を抱えながら、女が生きていくのはそれなりに体力がいるので、私たちはその名もなき熱っぽい詩を、時々どうしても、少なくとも交通費の20万円よりも、欲しくなるのもまた事実だ。だからそれをぼやっとしたまま愛とか叫ぶのであれば、それは脆い上に期待はずれにつまらないものだけど、それがなければ生きていけないかもな、とも思う。



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2015.03.06 Fri l 本・文芸 l top ▲