
前の記事でもチラッと触れていますが、田中慎弥の新作『宰相A』(新潮社)を読みました。
私は、あの田中慎弥氏がどうしてこんな小説を書いたのだろう、と最初は戸惑いました。ところが、『宰相A』を読んで以来、テレビで総理大臣のアベシンゾウ氏が国会答弁をしている姿などを目にするたびに、やたらこの小説が思い出されるのでした。
『宰相A』に関連した記事で、私が読んだのは以下の2つですが、いづれの記事も、文学云々よりアベシンゾウ氏と小説の「宰相A」を重ねることに重点が置かれた内容になっていました。つまり、作者と同郷の実在の政治家をモデルにしたディストピア小説という読み方をしているのです。
リテラ
安倍首相のモデル小説を出版! あの芥川賞作家が本人に会った時に感じた弱さと危うさ
朝日新聞デジタル
いま「宰相A」と対峙する 田中慎弥さんの新作、舞台は「もう一つの日本」
小説家の「私」は、9月のある日、30年前に亡くなった母の墓参りに出かけます。「このところ小説のネタが尽きていた」「私」は、「母の墓に手を合わでもすれば何かアイデアが出てくるかもしれない、たとえ何も出てこないにしろ、初めての墓参りという事実を、母の思い出を混じえて描写すれば、圧倒的な評価は得られないまでも作家としての浮上の足がかりには十分なるのではないか」と考えたのでした。
しかし、母の墓がある町の駅に降り立った「私」は、奇妙な光景を目にします。駅のアナウンスも英語で、駅の構内を行き交う人たちも電車の乗客も、みんなアングロサクソン系の外人なのです。彼らは、同じ緑色の軍服風の制服を着ていました。しかも驚くことに、自分たちのことを「日本人」だと言います。やがて「私」は、身分を証明するN・P(ナショナルパス)をもってなかったために、「侵入者」として軍に引き渡され連行されることになります。その連行された先が、アングロサクソン系の日本人が支配する「日本国」なのでした。
「日本国」の公用語は英語で、日本語は「旧日本語」と呼ばれています。「日本国」は、「完全なる民主主義国であり、国民の国への関わり方も非常に積極的で、選挙の投票率は国会、地方を問わずしばしば百パーセント近くに達する。与党は現在の日本が成立して以降一貫して政権を任されており、与党はそれに応えて国民を完全に統治している」全体主義国家です。そして、戦争主義的世界的平和主義の精神を掲げ、世界各地で平和的民主主義的戦争をおこなっているのでした。
旧日本人は選挙権も与えられず、曽野綾子氏があこがれる南アフリカのアパルトヘイトと同じように、居住区に閉じ込められ、そのなかで生活することを強制されています。ただ、首相だけは、旧日本人を封じ込めるために、「旧日本人の中から頭脳、人格及び民主国日本への忠誠に秀でた者が選ばれる」慣例になっていました。そして、現在の傀儡が「宰相A」なのでした。
中央から分けた髪を生え際から上へはね上げて固めている。白髪は数えられるくらい。眉は濃く、やや下がっている目許は鼻とともにくっきりとしているが、下を見ているので、濃い睫に遮られて眼球は見えない。俯いているためだけでなく恐らくもともとの皮膚が全体的にたるんでいるために、見た目は陰惨だ。何か果たさねばならない役割があるのに能力が届かず、そのことが反って懸命な態度となって表れている感じで、健気な印象さえある。
「(略)あれでもだいぶ体調がいい方でしょう。何しろひどく悪くなって一旦は首相を辞めたくらいでしたから。特効薬が見つかったとかで復帰してはきましたが、完治はしていません。」
「なんの病気なんです?」
(略)
カメラが引いて分ったことがもう一つ。よく見るとマイクが置かれた演壇の前板がそっくり外されていて、そこから、緑の生地に覆われた何かがミサイルの尖端部の形そっくりに突き出ている。首相の腹、にしては位置が低過ぎる。顔をほんの少し斜めうしろに傾けて、
「あの、出っ張ってるところって、ひょっとして。」
「ええ、局部です。」
「臨月の妊婦くらいありますよ。」
「あれが首相の病気です。一度は辞任して治療を続けていたのですが、いっそこのままやってみてはどうかとの軍部からの要請で復帰したんです。」
滑稽な独裁者。無能であるがゆえに精一杯虚勢を張って強い政治家=「愛国」者を演じる独裁者。でも、それは、対米従属の思想を唯一無二のものとする、「愛国」と「売国」が逆さまになった戦後の背理を体現する哀しき政治家の姿です。アメリカの言いなりになることが「愛国」であるという、この倒錯したナショナリズム。円安株高も、TPPと同様、国を売るカラクリでしかありません(おっと、そんなことはこの小説には書いていませんが)。
ホラン千秋は、帯につぎのような推薦文を寄せていました。
これは夢ではない、現実だ。
社会を疑うことさえ面倒になった日本人。
見て見ぬ振りをしてきた「日本」がここにある。
滑稽な独裁者は、トリックスターでもあります。ナヨナヨとした女性的な身のこなしの彼は、拳を胸の前に小さく振り上げながら、悪い冗談みたいな話をこともなげにつぎつぎと現実化しています。まるで「もうひとつの日本」が現実のなかでも進行しているかのようです。逆にそれが、滑稽で無能な彼の”強み”と言うべきなのかもしれません。
小説のほうは、居住区の旧日本人たちから救世主の再来と見なされた「私」が、やがて反「日」解放闘争のリーダーに祭り上げられ、過酷な役割を担うことになるのでした。
一方、私は、この『宰相A』には、同郷の政治家をカルカチュアライズするだけでなく、作家としての覚悟のようなものも表現されているように思いました。それは、愚直なまでに”文学の可能性”を問う姿勢です。それが、「さ、いくらでも書けばいいの。ただし途中でやめちゃ駄目。ずっとずっと、たとえどんなに大変なことがあっても惨めな目に遭っても書き続けなさい」と母親から言われた「私」の作家としての覚悟なのでしょう。
「私」は、三島由紀夫について、「また小説を書かなければならないのだ。いつまでも死んでいる場合じゃない。死ぬのは作家の仕事じゃない。」と言います。さらに、「どうしてこの世は、大きなお城と立派な制服が大好きな」カフカの『城』のバルナバスばかりなんだろう、と嘆きます。そして、「しっかりしろ、作家。目と耳を塞ぐな。これはお前が書いている世界だ。何を怖がってる? 作家の想像力はそんなに貧しいのか? 紙と鉛筆(それが目に見えないのがどうした?)を使うお前の仕事はこの程度の現実にも簡単に打ち負かされるものなのか?」と自問するのでした。
どんなことばでもいいのです。どんな稚拙でつたないことばであってもいい。大事なのは、政治や文学や批評の世界で流通している制度化されたことばではなく、自分のことばなのです。文壇や論壇などとはまったく無縁な、たとえばヘイト・スピーチに対抗する路上の激しいことばのやり取りのようななかにこそ、あたらしいことばが生まれる可能性があるのだと思います。そのあたらしいことばからあたらしい知性も生まれるはずです。制度化されたことばでいくら反知性的な風潮を嘆いても、なにもはじまらないのです。それは、文学も同じでしょう。
純文学の作家にとって冒険とも言えるこの小説は、そんなあたらしいことばを求める覚悟の表明のようにも読めました。
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