先月29日に再選されたばかりのFIFA(国際サッカー連盟)のブラッター会長が、昨日、辞意を表明したというニュースがありました。ワールドカップ開催をめぐる前代未聞の汚職スキャンダルに揺れているFIFAですが、再選した当初から、ブラッター会長にはヨーロッパの加盟国を中心に国際的な批判が寄せられていました。辞意表明は、その批判に屈したかたちですが、ブラッター会長自身も捜査の対象になっているという報道もあります。

もちろん、今回の辞意表明の背景に、ヨーロッパ対南米・アジア・アフリカというFIFA内部の「伝統的な対立」が伏在しているのもたしかでしょう。

それにしても、どうして”疑惑の人”であるブラッター会長が再選されたのか、その疑問は拭えません。なにを隠そう、JFA(日本サッカー協会)もブラッター再選を支持していたのです。それどころか、日本政府は、過去に(ワールドカップ開催の見返りに?)ブラッター会長に旭日大綬章まで賜っているのです。

しかし、”疑惑の人”を支持したJFAに対して、国内で批判する声はほとんど聞かれません。日本のサッカージャーナリズムもまた、”政権批判”を封印した翼賛体制にあるのです。

同じように、2014年、八百長疑惑をもたれていたハビエル・アギーレ氏を代表監督に招聘した際も、疑問を呈する声はほとんど聞かれませんでした。そして、アギーレ氏が辞任した際も、”任命責任”を問う声は少なく、結局JFAは誰も責任を取らず現在に至っています。

ジャーナリズムがジャーナリズムの役割を果たしてないのです。この”ナアナア主義”がJFA の夜郎自大な体質を増長させ、強いては日本サッカー停滞の一因になっていると言っても言いすぎではないでしょう。

考えてみれば、今のマスコミの自国賛美(”テレビ東京的慰撫史観”)は、サッカージャーナリズムが先鞭をつけたと言えなくもないのです。それが、3.11の東日本大震災をきっかけに、いっきにマスコミ全体に拡がったのでした。

ただ無原則に自国を賛美することが「愛国」で、少しでも批判すれば「反日」になる。それでは、サッカーでも政治でも、腐敗と停滞を招いてしまうのは当然でしょう。

サッカーファンも、Yahoo!ニュースで政治に目覚めた人も、本質から目を逸らされ、ただ踊らされているだけなのです。
2015.06.03 Wed l 社会・メディア l top ▲