私は、へそ曲がりなので、話題になった本はあまり読まないのですが、少年Aの『絶歌』は読みたいと思いました。しかし、書店をまわっても在庫がありませんでした。それどころか、ネットもどこも品切れでした。

『絶歌』については、「ネットで批判が殺到」などと言われていますが、しかし、Amazonのレビューなどを見る限り、(レビューがどういうしくみになっているのかわかりませんが)実際に本を読んでなくて、ただ感情的に「批判」(というより誹謗)しているようにしか思えません。もともとAmazonのレビューには、この手の”ためにする”誹謗が多いのですが、特に今回は「炎上」目的でそれが集中している感じです。「遺族の許可を取ってない」とか「不買運動を起こそう」とか、そんな”頭の悪いこと”しか言えないイタい人間たち。

Amazonでは、1620円の定価に対して、3千円とか4千円の高値で売っているマーケットプレイスの書店がありました。こういう便乗商法こそ批判されるべきでしょう。

一方、京王電鉄系列の啓文堂書店が、「遺族感情に配慮して」、『絶歌』の販売を自粛することを決定したというニュースもありました。私は、如何にも鉄道会社らしい官僚的な対応(=事なかれ主義)だなと思いました。判断するのは書店ではなく、読者なのです。自粛を決めた「上層部」というのは、もともと出版文化とは関係のない親会社の京王電鉄からの天下りなのでしょう。私は、このような俗情と結託して”焚書坑儒”に加担するような書店が、「良識を示した」とか「英断だ」とか称賛される風潮こそ、逆におぞましいと思いました。

秋葉原事件の加藤智大被告も何冊か本を出していますが、彼の場合、今回のような大きな批判はありませんでした。私は、昨年発売された『東拘永夜抄』(批評社)を読みましたが、全然期待外れでつまらなかったです。自己を対象化することばがあまりにも稚拙なのです。それがあの短絡的な犯罪と結び付いているのかと逆に思ったくらいです。

『絶歌』を読んだ人の間では、少年Aの文章力と表現能力の高さにびっくりしたという声が多いそうです。今回、ネットで反発を呼んだのは、そういった少年Aの才能に対するやっかみもあるのではないかという見方もありますが、あながち的外れとは言えないのかもしれません。そうなるとますます『絶歌』を読みたくなります。又吉の小説なんてどうでもいいけど、少年Aの手記は読みたいと思います。あとは読んでどう思うかでしょう。

今回は手記のようですが、殺人犯が小説を書いても構わないのです。それが文学というものです。もし彼にホントに才能があるなら、ドフトエフスキーや太宰治やカポーティに匹敵するような小説が書けるかもしれない。その可能性だってあるのです。

週刊誌の記事によれば、少年Aが最初に出版を依頼したのは、幻冬舎だったとか。しかし、幻冬舎の見城徹社長は、百田茂樹の『純愛』で批判を浴びたばかりで、しかも安倍首相の”お友達”でもあるので、出版を断念。それで、太田出版に企画を持ち込んだと言われていますが(「押し付けた」と言う人もいますが)、腐っても鯛とはこのことでしょう。私は、見城氏をちょっと見直しました。

小説家というのは、本来、市民社会の埒外に存在する”人非人”なのです。往来を歩けば、石が飛んでくることだってあるのです。”人非人”だからこそ、人間存在の本質にせまるような作品が書けるのです。見城氏も、そんな編集者として最低限の”見識”は失ってなかったと言うべきでしょう。

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2015.06.19 Fri l 本・文芸 l top ▲