まだ、帰りの電車のなかで30ページほど読んだだけですが、たしかに文章がうまいなと思いました。研ぎ澄まされた文体とは言い難いけど、読む者をぐいぐい引き込んでいく力があります。少年Aがこんなに頭のいい人間だったとは、思ってもみませんでした。これではネットのイタい人間たちは、少年Aの足元にも及ばないでしょう。
犯行現場となったタンク山や犯行に使った凶器を捨てた向畑ノ池。それらは、少年Aにとって特別な思い入れのある場所だったのです。タンク山と向畑ノ池(むこうはたけのいけ)と入角ノ池(いりずみのいけ)は、「誰にも立ち入られることのない、自分だけの聖域」であり、「この世界のどこにも属することができない自分の、たったひとりの居場所」だったと言います。
虫一匹もいないのではないかと思わせる閑静なニュータウンと、原初の森の記憶をとどめる鬱蒼とした入角ノ池の対比は強烈だった。それはあたかも僕の無機質な外見と、その裏に潜む獣性を投影しているかのような風景のコントラストだった。両極端な”ジキル”と”ハイド”が鬩ぎ合いながら同居する僕の二面性は、”人工”と”自然”がまったく調和することなく不自然に隣り合う、このニュータウン独特の知貌に育まれたのかもしれない。
入角ノ池のほとりには大きな樹があり、樹の根元には女性器のような形をした大きな洞がバックリ空いていた。池の水面に向かって斜めに突き出た幹は尖端へいくほど太さを増し、その不自然な形状は男性器を彷彿とさせた。男性器と女性器。アダムとエヴァ。僕は得意のアナグラムで勝手にこの樹を”アエダヴァーム(生命の樹)”と名付け愛でた。
水面にまで伸びたアエダヴァームの太い幹に腰掛け、ポータブルCDプレイヤーでユーミンの「砂の惑星」をエンドレスリピートで聴きながら、当時の”主食”だった赤マル(引用者註:マールボロ)をゆっくりと燻らすのが至福のひとときだった。
少年Aは、その”アエダヴァーム”と名付けた「女性器のような形をした大きな洞」に、土師淳君の遺体の一部(頭部)をひと晩隠したのでした。そして、この「解せない行動」について、「ふざけた事をほざくな」と言われるのを承知で、もしかしたら土師淳君を「”生き返らせたかった”のではないか」と自己分析するのでした。
森鴎外の言うヰタ・セクスアリス。思春期の男の子にとって、それはときに深刻なものですらあります。思春期の少年犯罪のかなりの部分に、ヰタ・セクスアリスが関係しているというのは、多くの専門家も指摘しているところです。少年たちは、大なり小なりそんな闇を心のなかに秘匿しているのです。私たちの性の目覚めと少年Aの猟奇的な犯罪が、紙一重とは言わないまでも、同一線上にあるのはたしかでしょう。私は、ネットの人間たちのように、少年Aの犯罪をまったく他人事と見ることはどうしてもできないのです。そこまで自分にバカではないつもりです。
また、最後の「被害者のご家族の皆様へ」のなかで、少年Aは、つぎのように書いていました。
この十一年、沈黙が僕の言葉であり、虚像が僕の実体でした。僕はひたすら声を押しころし生きてきました。それはすべて自業自得であり、それに対して「辛い」「苦しい」などと口にすることは、僕には許されないと思います。でも僕は、とうとうそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の思いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。
本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをかわっていながら、どうしても、どうしても書かずにいられませんでした。あまりにも身勝手すぎると思います。本当に申し訳ありません。
『絶歌』には、単なる贖罪ではない、その先にあるものを見ようとする姿勢があります。それが世間の反発を招き、ネットの悪意を誘発しているのでしょう。でも、だからこそ『絶歌』が、読みごたえのある本になっているとも言えるのです。
変な言い方ですが、『絶歌』は読んで損のない本だと思います。雑音に惑わされるのではなく、自分の目で読めば、いろんな思いや考えが去来するはずです。そして、反発するにせよ、同情するにせよ、みずからの人生観や人間観が激しくゆさぶられるはずです。それだけでも読んで損はないと思います。
読み終えたら、あらためて感想を書きたいと思います。