今日の夜、カーラジオでTOKYO FMを聴いていたら、「TIME LINE」という番組で、『絶歌』のことを取り上げていました。そのなかで、コメンテーターのコラムニスト・小田嶋隆氏が、『絶歌』について、本名も明かさず自己顕示欲だけでこのような本を書くのはおかしい、というような趣旨の発言をしていました。私はそれを聞いて、びっくりしました。まさか小田嶋氏がこのような発言をするとは思ってもみなかったからです。
さらに、アメリカの出版事情に詳しいという女性がゲストで登場し、アメリカで施行されている「サムの息子法」について説明していました。「サムの息子法」というのは、犯罪者がみずからの犯罪について本を書いた場合、それによって得た利益(印税)を被害者やその家族が強制的に取り上げることができるという法律です。しかし、言うまでもなく、本を書くことや本の印税を得ることは、憲法で保障された基本的な権利です。「サムの息子法」は、表現の自由や経済活動の自由を侵害するとんでもない法律と言えないこともないのです。
テレビやラジオのコメンテーターたちが始末が悪いのは、「表現・出版の自由は尊重されるべきですが」と前置きしながら、実際は世間の空気に迎合して、犯罪者は表現の自由を制限されて当然だ、犯罪者の本を出版するような出版社に出版の自由はない、と言わんばかりの発言をしていることです。どうして、内容の議論より表現そのものを制限するような話になるのか。
小田嶋氏に至っては、書いた本人よりこんな本を出す出版社のほうが問題だ、個人の利益だけでなく出版社の利益も取り上げるようにすべきだ、と言ってました。これでは、場合によっては出版の自由が制限されても仕方ないと言っているようなものです。言論統制を目論む和製ヒットラーが聞いたら拍手喝采するような話でしょう。
このような主張は、STAP細胞問題の”小保方バッシング”のときからずっとつづいている、この社会の全体主義的な空気を反映したものと言えるでしょう。常に”異物”を排除しようとする日本社会特有の同調圧力が、このような空気を作り出しているのは間違いないでしょう。なんのことはない、みずから進んで「もの言えば唇寒し」社会を招来しているのです。
朝日新聞のインタビュー記事での森達也氏の発言にしても、どこか腰が引けた感じで歯切れが悪いのも、こういった抗えない空気があるからでしょう。でも、それは、”抗えない”のではないのです。抗ってないだけです。
『絶歌』に対する世間の過剰な反応で垣間見えたのは、私たちの”市民としての日常性”が、実は差別と排除の力学によって仮構されているという、この社会の構造です。「少年A」「酒鬼薔薇聖斗」という私たちの日常を脅かす”異物”が目の前に現れると、このようにたちどころに私たちの日常が牙を剥くのです。なぜなら、私たちの”市民としての日常性”は、本来フィクションであって、ただ差別と排除の力学によって仮構されているにすぎないからです。”異物”を不断に差別し排除することによって、私たちの日常が保守されるのです。その構造は、小田嶋氏のように、原発再稼働反対とか改憲反対とか安倍政権打倒とかに関係ないのです。
私たちの日常がもっとも凶暴なかたちで露出したのが、関東大震災の際の朝鮮人虐殺です。朝鮮人虐殺は、イデオロギーの問題なんかではなく、”市民としての日常性”が危機に瀕したとき、差別と排除の力学があのようなテロルを私たちの日常に呼び込んだのです。だから、「善良なる市民」(!)たる芥川龍之介も、自警団のひとりとして、ためらいもなく狂気の隊列に加わったのでした。
匿名ではなく本名を名乗れ。(ネットでは既に本名が晒されていますが)そうやって”テロルとしての日常性”を挑発するコメンテーターたち。でも、彼らは、作家や評論家にペンネームではなく本名を名乗れとは言いません。犯罪者(元犯罪者)なら、”私刑”の標的にされ晒し者にされても当然だ、とでも言いたげです。反知性的な風潮を嘆くような人たちが、みずから反知性的な風潮に身を寄せて、一緒になって石を投げているのです。
さらに、アメリカの出版事情に詳しいという女性がゲストで登場し、アメリカで施行されている「サムの息子法」について説明していました。「サムの息子法」というのは、犯罪者がみずからの犯罪について本を書いた場合、それによって得た利益(印税)を被害者やその家族が強制的に取り上げることができるという法律です。しかし、言うまでもなく、本を書くことや本の印税を得ることは、憲法で保障された基本的な権利です。「サムの息子法」は、表現の自由や経済活動の自由を侵害するとんでもない法律と言えないこともないのです。
テレビやラジオのコメンテーターたちが始末が悪いのは、「表現・出版の自由は尊重されるべきですが」と前置きしながら、実際は世間の空気に迎合して、犯罪者は表現の自由を制限されて当然だ、犯罪者の本を出版するような出版社に出版の自由はない、と言わんばかりの発言をしていることです。どうして、内容の議論より表現そのものを制限するような話になるのか。
小田嶋氏に至っては、書いた本人よりこんな本を出す出版社のほうが問題だ、個人の利益だけでなく出版社の利益も取り上げるようにすべきだ、と言ってました。これでは、場合によっては出版の自由が制限されても仕方ないと言っているようなものです。言論統制を目論む和製ヒットラーが聞いたら拍手喝采するような話でしょう。
このような主張は、STAP細胞問題の”小保方バッシング”のときからずっとつづいている、この社会の全体主義的な空気を反映したものと言えるでしょう。常に”異物”を排除しようとする日本社会特有の同調圧力が、このような空気を作り出しているのは間違いないでしょう。なんのことはない、みずから進んで「もの言えば唇寒し」社会を招来しているのです。
朝日新聞のインタビュー記事での森達也氏の発言にしても、どこか腰が引けた感じで歯切れが悪いのも、こういった抗えない空気があるからでしょう。でも、それは、”抗えない”のではないのです。抗ってないだけです。
『絶歌』に対する世間の過剰な反応で垣間見えたのは、私たちの”市民としての日常性”が、実は差別と排除の力学によって仮構されているという、この社会の構造です。「少年A」「酒鬼薔薇聖斗」という私たちの日常を脅かす”異物”が目の前に現れると、このようにたちどころに私たちの日常が牙を剥くのです。なぜなら、私たちの”市民としての日常性”は、本来フィクションであって、ただ差別と排除の力学によって仮構されているにすぎないからです。”異物”を不断に差別し排除することによって、私たちの日常が保守されるのです。その構造は、小田嶋氏のように、原発再稼働反対とか改憲反対とか安倍政権打倒とかに関係ないのです。
私たちの日常がもっとも凶暴なかたちで露出したのが、関東大震災の際の朝鮮人虐殺です。朝鮮人虐殺は、イデオロギーの問題なんかではなく、”市民としての日常性”が危機に瀕したとき、差別と排除の力学があのようなテロルを私たちの日常に呼び込んだのです。だから、「善良なる市民」(!)たる芥川龍之介も、自警団のひとりとして、ためらいもなく狂気の隊列に加わったのでした。
匿名ではなく本名を名乗れ。(ネットでは既に本名が晒されていますが)そうやって”テロルとしての日常性”を挑発するコメンテーターたち。でも、彼らは、作家や評論家にペンネームではなく本名を名乗れとは言いません。犯罪者(元犯罪者)なら、”私刑”の標的にされ晒し者にされても当然だ、とでも言いたげです。反知性的な風潮を嘆くような人たちが、みずから反知性的な風潮に身を寄せて、一緒になって石を投げているのです。