いい加減食傷気味なのは重々承知ですが、あと一度だけ『絶歌』について書きたいと思います。と言うのも、朝日新聞の「『絶歌』出版を考える」企画の第二弾(下)で、荻上チキと斎藤環両氏のインタビューが掲載されていたのですが、その記事を読んで思うところがあったからです。

朝日新聞デジタル
(表現のまわりで)『絶歌』出版を考える:下 何が読み取れるのか 識者に聞く

ハフィントンポスト(転載)
『絶歌』何が読み取れるよのか 荻上チキさん・斎藤環さん

二人のインタビューは、好対照、と言うより、まったくレベルの違うものでした。萩上キチは、大方の人たちと同じように、世間の”反発”をただなぞっただけの薄っぺらな”感想”に終始していました。要するに、誰でも言えることを言っているだけです。最近、テレビの情報番組に、口だけ達者な芸能人がコメンテーターとして出ていますが、荻上キチが言ってることはそんな芸能人となんら変わらないのです。

一方、斎藤環氏は、精神分析の専門家だけあって、示唆に富んだ分析をしていました。

 彼は祖母への愛着から性的な発展がいびつな方向に向かい、嗜虐(しぎゃく)的な方法でしか快楽が得られなくなります。その後、手段が急激にエスカレートしていく過程は、アルコールなどの依存症者のパターンとよく似ています。最初は猫を殺すことで満足していたのが、次第に耐性がついて同じ刺激では満足できなくなる。

 彼は他人と違う衝動を抱えた劣等感が強く、孤立感を抱えたまま自己を追い詰めていった可能性があります。どうすれば良かったかと言われれば、そうした性的嗜好(しこう)が思春期には特別なものではないことを説明できる大人が、じっくり彼の話を聞く機会を持つことが抑止効果を持ち得たかもしれません。


逮捕されたあと、面会に来た叔母さん(母親の妹)が、泣きながら「A、ごめんな、ごめんな」と謝ったというのも、そういった後悔の念があったからかもしれません。

私たちも、専門家ではないので斎藤環氏の分析のすべては無理だとしても、その半分くらいは読み取ることができるのではないでしょうか。

罪を憎むことは簡単です。小田嶋隆氏や荻上チキのように、罪を非難するだけなら誰でもできる。しかし、同時に罪の先にある人間を見ることも必要ではないのか。少くともそれが「識者」の役割ではないのか。

斎藤環氏の分析にもあるように、『絶歌』の本質は、むしろ第一部のなかにあるのだと思います。それを荻上チキは、「いかにも90年代的な言葉遣いがちりばめられた第一部は、痛々しくて読むのが苦痛でした。冗舌ですが表層的。」と否定するのでした。要するに、なにも読み取ることができず(読み取る気もなく)、ただ俗情と結託しているだけなのです。

荻上キチが否定する「いかにも90年代的な言葉遣い」(90年代的な言葉遣いってなに?って感じですが)についても、斎藤氏は、「象徴的表現をたくさん使うのは健全化の証拠」と言ってました。

ゼロ年代の批評家たちは、どうしてこんなに揃いも揃って人間に対して鈍感なのでしょうか。いや、それは人間に対してだけではありません。政治に対しても然りです。彼らの相対主義的な言説は、案外全体主義のそれと隣接しているのではないか。
2015.06.30 Tue l 本・文芸 l top ▲