前回のつづきで、床屋政談をもう一席。
今日のテレビ東京「週刊ニュース新書」に民主党の枝野幸男幹事長が出演していましたが、そのなかで、番組ホストの田勢康弘氏から「政権をとったら、安倍政権の”解釈改憲”を元に戻すのか?」と質問された枝野幹事長は、早い時期に政権に復帰したら戻すけど、解釈が定着したあとに政権に復帰したら戻すのは難しいだろう」と答えていました。
私は、最初言っている意味がわかりませんでした。自民党を勝たせるためだけに存在するような民主党が「政権をとる」という仮定自体があまりにも非現実すぎてピンとこなかったということもあるのですが、それだけでなく、「解釈が定着したら戻すのが難しい」ということばの意味がわからなかったのです。しかし、そのあとの枝野幹事長の話で、やっと合点がいったのでした。
枝野幹事長は、従来の解釈の積み重ねを無視して、独断的に解釈する安倍政権の”解釈改憲”は立憲主義に反するけど、安倍政権の”解釈改憲”が定着した場合、今度はそれを踏襲することが立憲主義になるので、解釈を元に戻すことはできないと言うのです。つまり、枝野幹事長の言う立憲主義というのは、憲法に違反しているかどうかではなく、解釈の積み重ねに違反しているかどうか、その整合性があるかどうかなのです。
なんのことはない、民主党の「安保法制反対」は、平和憲法に対する理念からではなく、単に立憲主義に関する論理上の技術論の問題にすぎなかったのです。枝野幹事長の論法だと、安倍政権の”解釈改憲”がなし崩し的に定着すれば、「9条を守れ」「自衛隊の海外派兵反対」が逆に「立憲主義に反する」ことになり、将来(!?)の民主党政権が、今の自公政権と同じような立場をとることも充分考えられるのです。枝野幹事長の発言は、その”含み”をもたせたものと言えるでしょう。
枝野幹事長の発言を聞いていたら、まさに民主党の正体見たり枯れ尾花という感じで、あの民主党政権の悪夢がよみがえるようでした。福島瑞穂が言うように、自民党と民主党は「カレーライスとライスカレーの違いしかない」のです。ただ、与党と野党の立場の違いで、国民向けのポーズが違っているだけです。
衆院特別委員会の強行採決の際、民主党の議員たちがいっせいにテレビカメラに向かって、「強行採決反対!」というボードを掲げていましたが、辻元清美議員の”涙の訴え”やあのボードを掲げた光景に、私はひどく違和感を覚えました。「反対」というより、「つぎの選挙は私たちに」とアピールしているようにしか見えませんでした。そして、今日の枝野幹事長の発言を聞いて、私の違和感が間違ってなかったことを確信したのでした。
今、SEALDsという学生の運動にスポットが当てられていますが、なぜ彼らがメディアや既成政党に受けがいいのかと言えば、70年安保のときと違って学生たちが「良い子」で「お行儀がいい」からです。昔の学生のように自分たちに歯向かってこないからです。
でも、枝野幹事長の”含み”を見てもわかるように、そのうち”用なし”になれば、狡賢い大人たちに裏切られるのは目に見えています。それは、今まで何度も「勝てない左派」がくり返してきたことです。
戦後の政治は、与党であれ野党であれ、それを背後で支える官僚機構やメディアも含めて、ひとつの”理念”を共有することで、”ネオ翼賛体制”とも言うべき体制が作り上げられているのです。もちろん、その”理念”というのは、「国是」としての対米従属です。
『絶歌』出版に対して、作家の東野圭吾が激怒したという話がありますが、東野圭吾の小説も又吉の『火花』も、それこそ本屋大賞も芥川賞も、所詮は『絶歌』のような”異端”を排除した「閉じられた言語空間」のなかで成立する、”日本文学”という安寧と秩序に奉仕する”お約束芸”にすぎないのです。それと同じです。
平和も民主主義も、そして私たちの日常も、反米や犯罪のような”異論”や”異端”を排除することで仮構されているにすぎないのです。
「戦後安保政策の大転換」は、なにも日本が主体的に「大転換」したわけではなく、アメリカの都合が変わっただけです。アメリカの意向に唯々諾々と従うので、「大転換」になるだけです。
「売国」を「愛国」と言い換え、従属思想で自己を合理化して惰眠を貪る、そんな「愚者の楽園」(『永続敗戦論』)を視座におさめない反戦・平和運動は、所詮虚妄です。まして、なんの留保もなく「ぼくらの民主主義」(高橋源一郎)に依拠し、「選挙に行かない人間が(安倍政権の)暴挙を許しているんだ」というような夜郎自大な運動は、それこそ「アべ政治」の裏返しでしかないのだと思います。
今日のテレビ東京「週刊ニュース新書」に民主党の枝野幸男幹事長が出演していましたが、そのなかで、番組ホストの田勢康弘氏から「政権をとったら、安倍政権の”解釈改憲”を元に戻すのか?」と質問された枝野幹事長は、早い時期に政権に復帰したら戻すけど、解釈が定着したあとに政権に復帰したら戻すのは難しいだろう」と答えていました。
私は、最初言っている意味がわかりませんでした。自民党を勝たせるためだけに存在するような民主党が「政権をとる」という仮定自体があまりにも非現実すぎてピンとこなかったということもあるのですが、それだけでなく、「解釈が定着したら戻すのが難しい」ということばの意味がわからなかったのです。しかし、そのあとの枝野幹事長の話で、やっと合点がいったのでした。
枝野幹事長は、従来の解釈の積み重ねを無視して、独断的に解釈する安倍政権の”解釈改憲”は立憲主義に反するけど、安倍政権の”解釈改憲”が定着した場合、今度はそれを踏襲することが立憲主義になるので、解釈を元に戻すことはできないと言うのです。つまり、枝野幹事長の言う立憲主義というのは、憲法に違反しているかどうかではなく、解釈の積み重ねに違反しているかどうか、その整合性があるかどうかなのです。
なんのことはない、民主党の「安保法制反対」は、平和憲法に対する理念からではなく、単に立憲主義に関する論理上の技術論の問題にすぎなかったのです。枝野幹事長の論法だと、安倍政権の”解釈改憲”がなし崩し的に定着すれば、「9条を守れ」「自衛隊の海外派兵反対」が逆に「立憲主義に反する」ことになり、将来(!?)の民主党政権が、今の自公政権と同じような立場をとることも充分考えられるのです。枝野幹事長の発言は、その”含み”をもたせたものと言えるでしょう。
枝野幹事長の発言を聞いていたら、まさに民主党の正体見たり枯れ尾花という感じで、あの民主党政権の悪夢がよみがえるようでした。福島瑞穂が言うように、自民党と民主党は「カレーライスとライスカレーの違いしかない」のです。ただ、与党と野党の立場の違いで、国民向けのポーズが違っているだけです。
衆院特別委員会の強行採決の際、民主党の議員たちがいっせいにテレビカメラに向かって、「強行採決反対!」というボードを掲げていましたが、辻元清美議員の”涙の訴え”やあのボードを掲げた光景に、私はひどく違和感を覚えました。「反対」というより、「つぎの選挙は私たちに」とアピールしているようにしか見えませんでした。そして、今日の枝野幹事長の発言を聞いて、私の違和感が間違ってなかったことを確信したのでした。
今、SEALDsという学生の運動にスポットが当てられていますが、なぜ彼らがメディアや既成政党に受けがいいのかと言えば、70年安保のときと違って学生たちが「良い子」で「お行儀がいい」からです。昔の学生のように自分たちに歯向かってこないからです。
でも、枝野幹事長の”含み”を見てもわかるように、そのうち”用なし”になれば、狡賢い大人たちに裏切られるのは目に見えています。それは、今まで何度も「勝てない左派」がくり返してきたことです。
戦後の政治は、与党であれ野党であれ、それを背後で支える官僚機構やメディアも含めて、ひとつの”理念”を共有することで、”ネオ翼賛体制”とも言うべき体制が作り上げられているのです。もちろん、その”理念”というのは、「国是」としての対米従属です。
『絶歌』出版に対して、作家の東野圭吾が激怒したという話がありますが、東野圭吾の小説も又吉の『火花』も、それこそ本屋大賞も芥川賞も、所詮は『絶歌』のような”異端”を排除した「閉じられた言語空間」のなかで成立する、”日本文学”という安寧と秩序に奉仕する”お約束芸”にすぎないのです。それと同じです。
平和も民主主義も、そして私たちの日常も、反米や犯罪のような”異論”や”異端”を排除することで仮構されているにすぎないのです。
「戦後安保政策の大転換」は、なにも日本が主体的に「大転換」したわけではなく、アメリカの都合が変わっただけです。アメリカの意向に唯々諾々と従うので、「大転換」になるだけです。
「売国」を「愛国」と言い換え、従属思想で自己を合理化して惰眠を貪る、そんな「愚者の楽園」(『永続敗戦論』)を視座におさめない反戦・平和運動は、所詮虚妄です。まして、なんの留保もなく「ぼくらの民主主義」(高橋源一郎)に依拠し、「選挙に行かない人間が(安倍政権の)暴挙を許しているんだ」というような夜郎自大な運動は、それこそ「アべ政治」の裏返しでしかないのだと思います。