作家の盛田隆二氏が、みずからのTwitterにつぎのような書き込みをしていました。


それに対して、つぎのようなリツィートがたてつづけにありました。





私は、これらの書き込みを読んで、高見順ではないですが、「いやな感じ」を受けました。また、中核派と目されている「法政大学文化連盟」周辺が投稿したと思しきYouTubeの動画も見ましたが、あらためて安保法制反対派への違和感を抱かざるを得ませんでした。

ここにあるのは、あきらかに排除の論理です。『絶歌』騒動に見られるように、犯罪者を排除することで成り立つ日本文学という「愚者の楽園」。それと同じように、中核派のような過激派を排除することによって成り立つ「ぼくらの民主主義」。

ビラ配りを恫喝し排除しようとしたのは、ヘイトスピーチに対してカウンターをおこなっているグループや反原発の官邸デモを主催している団体の人間たちのようですが、これでは「ヘイトスピーチ反対」や「原発再稼働反対」が色あせて見えるのは当然でしょう。

法政大学がもともと中核派の拠点であり、全共闘運動退潮後も、長い間中核派の影響が強かったのは事実です。私が受験したときも、機動隊の壁のなかを教室に入り、教室のなかもまだ多くの落書きが残されていて、とても受験するような雰囲気ではありませんでした。

そのためか、今の田中優子学長のもとで、学内の中核派をはじめとする”過激派排除”が実施され、学内でのビラ配りや演説などもいっさい禁止されているそうです。一方、それに抗議する運動の過程で、既に百名以上の逮捕者がでているという話もあります。

田中優子学長は、週刊金曜日の編集委員も務める「リベラル」派であることから、「法政大学文化連盟」をはじめとする学生側は、田中学長に象徴されるような「リベラル」や「民主主義」に対して、その欺瞞性を激しく批判しているのですが、はからずも今回もまた、反原発や反ヘイトスピーチや反安保法制を主張する人たちが口にする「民主主義」のその薄っぺらさが露呈されたと言っても過言ではないでしょう。

法政大学の問題も、反安保法制の問題も、中核派云々以前の問題です。それを本末転倒した「極左」「過激派」「ブサヨ」問題に矮小化して、そこに排除の論理を持ち込むというのは、誰が見ても「民主主義」とは相いれないものでしょう。

同じ学生として、SEALDsのようなやり方は生ぬるい、日和見主義だ、堕落した議会主義だ、提灯デモではなく実力闘争に訴えよう、と主張するのは、とっちが正しいかではなく、学生運動ではよくあることです。敵対する党派が怒鳴り合いながら、ときには殴り合いながらビラ配りをしている光景は、当たり前のこととして昔からありました。それが運動のエネルギーになったのです。ギリシャだってスペインだってスコットランドだって、そんななかから、シリザやポデモスやSNPが生まれたのです。

結局、盛田隆二氏は、”反論”のリツィートに対して、つぎのように、みずからの懸念をあっさりと引っ込めたのでした。


私も盛田氏の『いつの日も泉は湧いている』(日本経済新聞出版社)を読みましたが、氏自身、川越高校在学中から反戦闘争に参加していたのですから、そのなかで、このような排除の論理の醜悪さも見てきたはずです。それは、新左翼党派間の内ゲバだけではありません。日本共産党にも、同党傘下の”全学連”の裏組織として「あかつき部隊」というのが存在していました。「あかつき部隊」の主要メンバーだった宮崎学氏が書いているように、「極左暴力集団=トロッキスト」に対して、「学園の正常化」の名のもとに排除を目的としたテロをおこなっていたのです。私は、今回の行為に、学生運動の昂揚期にまるで運動のエネルギーを奪うかのように立ち現われた、「平和の党」の”もうひとつの暴力”を想起せざるを得ませんでした。

ビラを配っていた学生は、たかだか10数名です。しかも、ただビラを配っていただけなのです。なんの留保もない、多数や絶対的な正しさを背にした排除の論理。過激派云々以前の問題として、私はその行為に身の毛のよだつものを覚えてなりません。

盛田氏の最初のTwitterも、おそらく私と同じように「いやな感じ」をもったから書き込まれたのでしょう。それがどうしてこんなにも簡単に、見ざる言わざる聞かざるになるのか。もしかしたら、国会の外にも、”別のファシズム”が蠢きはじめているのかもしれないのです。作家であれば、高見順のように「いやな感じ」は「いやな感じ」として、どこまでもこだわるべきではないか。ただ政治に随伴するのではなく、運動の論理とは別に作家の目があって然るべきではないか。

こういった話は、非常にデリケートな問題で、ともすれば色眼鏡で見られる懸念がありますので、ホントは触らぬ神に祟りなしが賢明なのかもしれませんが、しかし、やはり見すごせない問題があるように思えてならないのです。

ファシストを批判する人間がどうしてファシストまがいのことをするのか。だったら吉本隆明の「昼寝のすすめ」ではないですが、反対デモなんて「関心ない」と言う人間のほうがよほど”健全”と言えるでしょう。反対派は、今度は、デモに参加しない人間たちが法案の成立を許したんだと言うに決まっているのです。

今回の行為も含めて、在日の視点からSEALDsを批判的に見ているつぎのような書き込みが、この問題の本質を衝いているように思いました。



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