
栗原康『はたらかないで、たらふく食べたい』(タバブックス)を読みました。
小さな出版社の本だからなのか、横浜市内の書店をまわってもどこも在庫がありませんでした。横浜駅の地下街にある有隣堂のカウンターで、スマホの画面を見せながら「この本はありますか?」と尋ねました。すると、応対した若い男性の店員は、大きな声で「『はたらないで、たらふく食べたい』ですね」と念を押すのでした。その途端、まわりのお客たちがいっせいに私のほうをふり返った気がしました。
結局、横浜では見つけることができず、ネットで在庫を検索したら池袋のジュンク堂にあることがわかりました。それで池袋まで行きました。サイトに表示された売り場のカウンターに行くと、若い女性の店員が出版社の営業マンと楽しそうにおしゃべりをしていました。私は、スマホの画面を指し示しながら、「この本ありますか?」と尋ねました。すると、おしゃべりを中断させられた店員は、ちょっと不機嫌な表情を見せながらスマホに目をやり、こう言ったのです。「ああ、あの本」。
『はたらかないで、たらふく食べたい』という書名は、それだけで人々の顰蹙を買うのかもしれません。その顰蹙のなかに、「生の負債化」があるのだと著者は言います。つまり、働かざる者食うべからずというあれです。
著者の栗原康氏は、30代半ばのアナキズム思想が専門の研究者です。現在は大学の非常勤講師をしていますが、それでも年収が80万円。その上、奨学金の借金635万円を抱え、埼玉の実家で、両親の年金に寄生して暮らしています。
大杉(引用者註:大杉栄)がいっていることは、ひとことでいうと、やりたいことしかやりたくないということだ。文字通りの意味である。そして、これをいまの資本主義社会にあてはめると、はたらかないで、たらふく食べたいということだ。(略)
でも、資本主義社会だとこういわれる。やりたいことをやりたければ、まずカネをかせげ、やりたいことでカネをかせぐか、それができなければ、ほかの仕事でカネをかせいでこい。そうじゃなければ、生きていけないぞと。
カネを稼ぐことができない者は落伍者。働かざる者食うべらからず。これが資本主義社会のオキテです。しかも、「生の負債化」は、労働倫理の強制だけにとどまりません。資本主義社会では労働と消費は一体化しているのです。
(略)かせいだカネで家族をやしないましょう。よりよい家庭をきずきましょう。家をたてましょう。車をもちましょう。おしゃれな服をきて、ショッピングモールでもどこでもでかけましょう。これがやばいのは、そうすることが自己実現というか、そのひとの人格や個性を発揮することであるかのようにいわれていることだ。まるで、カネをつかうことが自分のよろこびを表現しているかのようだ。ショッピングをたのしまざるもの、ひとにあらず。
特に資本主義の尖端にある都会では、消費することが一義的なことで、それが生きることと直接つながっています。働いてものを買うというより、ものを買うために働いているという感じです。消費するバロメーターが幸福のバロメーターであるかのようです。消費できなければ都会では生きていけないのです。消費することが都会で生きる証しですらあるのです。
合コンで小学校教諭の女性と知り合い婚約まで至ったものの、年収50万円(当時)の婚約者に不安を抱いた相手から三行半を突きつけられ、公務員の妻の扶養に入るという甘い夢ははかなく終わるのでした。でも、著者は、みずからの失恋に伊藤野枝の「矛盾恋愛」を重ね、思想的に総括することを忘れません。アナキズムの”絶対的な自由”を今の社会に敷衍するとどうなるか。それは、ときに滑稽に見えることもありますが、しかし一方で、笑い話で済ますことができない本質的な問題を示してもいるのです。
ほんとうはただ相手のことをたいせつにおもっていただけなのに、結婚というものを意識した瞬間から、自分のことばかり考えるようになってしまう。しらずしらずのうちに、いわゆるカップルの役割を演じていて、それをこなすことが相手のためだとおもいこんでしまう。それがたがいに自分を犠牲にするものであったとしてもである。むしろ自分がこれだけのことをしているのだから、相手もこのくらいはしてくれないとこまるとおもいがちだ。たがいに負い目をかさね、見返りをもとめるようになる。
こういった考えが親鸞の他力思想にまで遡及していくのは当然でしょう。日本のアナキズム思想は、単に政治的な思想にとどまらず、自由恋愛論者の大杉栄に代表されるように、個人の思いや感情に視点を据えた人間味あふれる魅力的な思想でもあるのです。