先日、朝日新聞デジタルに、高橋源一郎氏と東浩紀氏の対談に関する記事が掲載されていました。

朝日新聞デジタル
3・11後の論壇に物申す 高橋源一郎さん×東浩紀さん

記事では触れていませんが、これは、7月10日に東浩紀氏が主宰するゲンロンカフェの企画でおこなわれた二人の対談、「『論壇』はどこにあるのか」を記事にしたものです。

記事にもあるように、3.11のあと、東浩紀氏は、「日本人はいま、めずらしく、日本人であることを誇りに感じ始めている。自分たちの国家と政府を支えたいと感じている」と書き、国家がせり出してきた状況を手放しで礼賛したのでした。言うまでもなく、その”国家的紐帯”は、やがてヘイトな「愛国」主義へと接続されるのでした。

東浩紀の渦状言論 はてな避難版
For a change, Proud to be Japanese

また、その前年(2010年)の朝日新聞の「論壇時評」で、東氏は、「滅びたと言われて久しい」「論壇」がネットを中心に「復活」しつつあり、その「突破口」になっているのがツイッターだ、と書いていました(「ネットが開く新しい空間」)。「いままでは愚痴の海に埋もれていた魅力的な言論が、ツイッターの出現によって可視化され組織化されている」と。

そして、大震災直後の最後の「論壇時評」では、大震災と原発事故によって、ネットをとおして発信者みずからがメディアになるようなあたらしい状況が現出したとして、ツイッターなどのソーシャルメディアに、「論壇」の復活とその未来像を見ているのでした。

ところが今になって、東氏は、「新しい言論空間が生まれるのかな、という希望」はあったけど、結局、「議論が意味をなさない社会状況になった」「今は何もない。希望はゼロ」と言うのでした。そんなことは最初からわかっていたはずです。それが彼がトンチンカンである所以です。

一方、東氏より年長で、東氏と違って政治の洗礼を浴びているはずの高橋源一郎氏は、今の状況を前向きにとらえ、「原発や安全保障、立憲主義など、人々の関心が集まるようになったことに希望を見いだそうと訴えた」そうです。でも、前向きになれる根拠になっているのは、かつて高橋氏らが否定したはずの(左右を問わない)全体主義的で権威的で抑圧的な”古い政治のことば”です。

「論壇」なんてないのです。とっくに終わっているのです。それは、東氏が言うような、ネットのあたらしい言語空間に吸収されたとかいうような意味ではありません。もはや「論壇」という発想そのものが意味をなさなくなったのです。

栗原康氏は、新著『現代暴力考』(角川新書)の「はじめに」(まえがき)で、反原発デモで遭遇したつぎのような経験を書いていました。

3.11直後の高円寺の反原発デモは、「めちゃくちゃ解放感があった」。大震災や原発事故による重苦しい雰囲気や負い目みたいなものをふり払いたいという気分がデモにあふれていたと言います。

ところが、それから1年後の官邸前デモに行くと、デモは警察の規制に従って整然とおこなわれる秩序立ったものに変わっていたのです。

(警察の規制に)いらだった若者が「ジャマなんだよ」と警官にくってかかっているが、そこにスタスタと腕章をまいた二〇代くらいの女性がやってきた。デモ主催者というか、ボランティアスタッフみたいなものだろう。わたしは「まあまあ」といなすくらいのことをするのかなとおもっていたら、その女性は大声をだしてこういった。「おわまりさんのいうことをきいてください。お仕事のめいわくでしょう」。


また、警察の規制をおしのけて、デモの一部が道路になだれ出たとき、歩道から腕章をつけた人たちがマイクでこう叫んだそうです。

「おまえら、なにがしたいんだ」。(略)
「これでデモができなくなったらどうするんだ。おまえらのせいで再稼働がとめられなくなるんだぞ」。


栗原氏は、こう書きます。

(略)デモにしても、いつのまにか秩序の動員力にのみこまれていて、ひとつの目的が設定されてしまっている。議会に圧力をかけること以外はやってはいけない。デモの主催者が正当な暴力を手にしていて、それにさからう人たちは「暴力的」といわれて非難される。権力だ。


栗原氏は、この秩序化された光景について、生きたいとおもうこと(Desire to Live)と生きのびること(Survival)というフランスのシチュアシオニストのラウル・ヴァネーゲムのことばを引用して論じているのですが、その光景をもたらしているのがとっくに失効したはずの”古い政治のことば”です。

「安保法制反対のデモが盛り上がっている」とマスコミは言いますが、仮に盛り上っているとしても、そのエネルギーの行き着く先は、民主党をはじめとする野党の国会対策なのです。栗原氏は、「原発推進派にしても反対派にしても、よりよく生きのびようとあらそっているだけのことだ」と書いていましたが、それは安保法制も同じでしょう。

そこには、既存の”秩序”に別の”秩序”を置き換える発想しかないのです。いや、そもそも別の”秩序”ですらないのかもしれません。同じ”秩序”のなかで、ただ陣取り合戦をしているだけではないのか。

二人の対談は、相変わらず啓蒙的でトンチンカンな言説と言わざるをえません。いみじくも二人の対談が、「論壇」なんてもはや意味をなさないことを逆に証明しているのだと思います。
2015.08.18 Tue l 社会・メディア l top ▲