安保法制(安保関連法案)は、今夜にでも参院特別委員会で強行採決されるのではないかと言われていますが、現時点ではまだ膠着状態がつづいているようです。

今さらの感がありますが、対米従属が「国是」のこの国では、国民の懸念などよりご主人様の意向が優先されるのは当然です。

そのご主人様の意向については、下記の「現代ビジネス」の記事がわかりやすく解説していました。

現代ビジネス
今さら聞けない安倍政権が安保にこれほどこだわるワケ

記事によれば、すべては2011年アメリカ連邦議会で成立した「予算管理法」に始まるのだとか。

この法律によって、それまでは「聖域」と言われてきた国防費を、以後の10年間で4,870億ドル以上、削減しなければならなくなった。これは、10年間で毎年平均8%近い削減額となる。


そして、予算の削減を実現するために、国防総省によって打ち出されたのが、「オフシェア・バランシング」という考えです。

オフショア・バランシングとは、簡単に言えば、世界中に展開しているアメリカ軍を徐々に撤退させ、その代わりにアメリカの同盟国、もしくは友好国に、それぞれの地域を防衛させるようにする。それによって、アメリカ軍がいた時と同様に、敵対国の台頭を防いでいくという概念だ。


「オフシェア・バランシング」によって、日本はアメリカの肩代わりをすることになるのですが、その際足手まといになるのが憲法9条です。解釈改憲で既成事実を積み重ね、9条改正へもって行くのは、「オフシェア・バランシング」下においては既定路線なのです。もちろん、9条改正は、丸山真男が言うような、主体性もなく「つぎつぎとなりゆくいきほひ」に流される日本の世論では、別にむずかしいことではないでしょう。「つぎつぎとなりゆくいきほひ」に必要なのは、既成事実の積み重ねだけです。

『宰相A』で描かれていたように、どう見ても安倍はただのアメリカの傀儡です。でも、なぜか、彼は、「日本を、取り戻す」「愛国」者のように看做されるのでした。どうして彼が「愛国」者になるのか、とても理解の外ですが、そういった倒錯した”『宰相A』的世界”にあるのが今の日本なのです。

安保法制をめぐる一連の流れのなかではっきりしたのは、従来「愛国」的と言われていた人たちがまったく「愛国」的ではなく、むしろ逆だということでした。それは、文字通り骨の髄まで対米従属が染みついたこの国のナショナリズムの姿でした。彼らが支持する政権は、どうひいき目に見ても、買弁的な政権でしかありません。でも、この国のナショナリズムでは、それが「愛国」に映るのです。『永続敗戦論』が喝破したように、戦後という時代の虚妄(個人的な言い方をすれば、「愛国」と「売国」が逆さまになった戦後という時代の背理)がこれほどはっきり示されたことはないのではないか。

一方、対米従属やナショナリズムに正面から向き合おうとしない反対派の運動も、相変わらず「ぼくらの民主主義」という空疎なマスターベーションをくり返しているだけです。一貫して運動を扇動してきた「田中龍作ジャーナル」にも、ついにこんな記事が登場していました。

田中龍作ジャーナル
【国会包囲】強行採決促す主催者の終了宣言って何だ?

 「アベはやめろ」「戦争法案いますぐ廃案」・・・夜空をつんざくコールは夜が明けるまで続きそうな勢いだった。抗議は最高潮に達していた。
 午後8時。これからという時だった。主催者(総がかり行動)のアナウンスが響く。「これで私たちの集会は終わりです。帰る人は桜田門駅の方向に向かってゆっくり解散をしたいと思います・・・」。
 8月30日と同じく主催者は帰宅を促したのである。


 参加者に帰宅を促す主催者は、警察に手を貸したに等しい。ツイッター上には主催者(総がかり行動)を批判するコメントが溢れた。
 「権力に従いたくないのに主催という権力をふりかざしていた」。ダイインした母親は目に涙をためながら歩道にあがった。


栗原康氏の『現代暴力論』を読むと、このような光景は「100年くらい」前からくり返されているそうです。そして、大杉栄は、そんな主催者を「音頭取り」と呼び、「音頭取りにつられて踊るのはもうやめよう」と言っているそうです。もちろん、踊るのをやめようと言っているのではありません。勝手に踊れと言っているのです。


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2015.09.16 Wed l 社会・メディア l top ▲