昨日、用事で隣県のある街に行きました。そこは、若い頃10年近く付き合った彼女(今風の言い方をすれば「元カノ」)が住んでいた街でした。私は、休みになると、当時住んでいた埼玉から100キロ近く離れたその街に、いつも車で彼女を迎えに行っていました。

高速道路のインターを降りると、さすがにまわりの風景は変わっていたものの、街中に向かう道路は昔のままでした。私は、「このカーブはなつかしいな」「この交差点もなつかしいな」などと心のなかで呟きながら運転していました。

見覚えのある駅前の通りを走っていると、今でも舗道を歩いている彼女にばったり出くわすような気がしました。しかも、歩いているのは、20数年前の彼女なのです。

別れる前年、彼女のお父さんがガンで亡くなったのですが、亡くなる半月くらい前に病院にお見舞いに行って、病室で二人きりになったとき、お父さんから「××(彼女の名前)のことを頼みますね」と絞り出すような声で言われました。私はそのお父さんの気持も裏切ってしまったのです。

終わった恋愛に対して、女性はわりと切り替えが早く、男性はいつまでも引きずる傾向があると言われますが、私もやはり未だ引きずっている部分があるのかもしれません。

車を運転しながら、私はなんだか胸が締め付けられるような気持になりました。と同時に、もうあの頃に戻ることはないんだなと感傷的な気分になっている自分もいました。もちろん、そのなかには多分に悔恨の念が混ざっているのでした。

恋愛に限らず他人から見ればどこにでもあるような話でも、当人にとっては、唯一無二の特別なものです。それが私を私たらしめているのです。

世の中の人たちは、なにか利害がない限り自分に関心などもってくれないけど、そのなかで利害もなく自分に関心をもってくれる相手を見つけるのが結婚だ、と言った人がいましたが、恋愛も同じでしょう。

どこにでもあるようなありきたりな話でも、それを特別なものとして共有できる相手を見つけるのが恋愛なのです。坂口安吾は、「恋愛は人生の花である」と言ったのですが、その「花」はときにつらさや切なさやかなしみをもたらすものでもあるのです。

用事を終え、再びインターに向かって国道を走っていると、前方の空が夕陽に赤く染まっていました。その風景も昔何度も見たような気がしました。

思い出と言えばそう言えますが、年を取ると、このように何ごとにおいても悔恨ばかりが募るのでした。そして、そんな悔恨を抱えて、これから黄昏の時間を生きていかねばならないのだなとしみじみ思いました。


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2015.09.23 Wed l 日常・その他 l top ▲