夕方、鎌倉に行った帰り、所用のため関内で途中下車したら、突然、ジャズの演奏がきこえてきました。昨日と今日の二日間、横浜は恒例のジャズプロムナードが開催され、市役所前で「街角ライブ」がおこなわれていたのです。

このブログでも何度かジャズプロムナードのことを書いていますが、最近はすっかり興味も失せ、開催中だということも知りませんでした。

見ると、照明もない薄暗いコンクリートの壁の前で、決して若いとは言い難いメンバーたちがスローな曲を演奏していました。秋の夕暮れにスローな曲というのは、それはそれで映えるのですが、しかし、私は、照明に汗がキラキラ光っているような激しい演奏を聴きたいなと思いました。今は亡き阿部薫のあの悲鳴のようなアルトサックスがなつかくしく思い出されます。そう言えば、阿部薫のLPを何枚かもっていましたが、あれはどこに行ったんだろうと思いました。

市庁舎の「街角ライブ」のすぐ近くでは、ホームレスの人たちが長い列を作っていました。これも夕刻の市庁舎前ではよく見かける光景ですが、ボランティア団体の炊き出しを待っているのか、あるいは横浜市が支給するドヤ券(宿泊券)やパン券(食事券)をもらうために並んでいるのでしょう。また、横浜スタジアムの前では、路上に空き缶を置き、コンクリートの上に正座して物乞いをしている男性もいました。

平岡正明は、『ヨコハマ浄夜』(愛育社)のなかで、1999年のジャズ・プロムナードの「横浜エリントン週間」について書いていますが、しかし、私が興味をもったのは、デューク・エリントンではなくベートーヴェンについて書かれたつぎの箇所です。

 ラジオから流れるドイツの交響曲を戦場で聴いていたのはドイツ兵だけではない。連合軍の兵も地下抵抗運動家も、市民も農民もだ。ドイツ第三帝国敗色濃厚なヨーロッパに慟哭粛々たる『英雄』第二楽章が流れる。
 「国家のために死んでも、国粋主義のために死んだのでは断じてあるまい。そういう《死》を慰藉してくれるものが『英雄』や『第七』『第九』にあったと思う。あの頃の日本の青春にベートーヴェンの<主としてシンフォニーが>果たしてきた役割を無視して、ぼくらにどんなベートーヴェンが語れようか。」(五味康祐『西方の音』)

平岡正明『横浜浄夜』所収・「ジャズ・プロムナード・横浜エリントン週間」


余談ですが、先の大戦では、日本においても230万人の戦死者が出たと言われています。しかし、その60%は戦闘死ではなく病死で、大半は餓死だったそうです。如何にあの戦争が無謀な戦争であったかということをこの数字は物語っていますが、日本の若者たちは、五味康祐が言うように、「国家のために死んでも、国粋主義のために死んだ」のでは「断じて」ないのです。そんな非業な「日本の青春」とベートーヴェンの交響曲の関係について、戦後生まれの私たちは知る由もないのですが、ただ人生のどんな場所にも音楽はちゃんと存在していたんだなとしみじみ思ったのでした。

高校時代、わけもわからず平岡正明の『ジャズ宣言』や『ジャズよりほかに神はなし』を読み、地元に唯一あったジャズ喫茶に通っていた頃、一方で私は、ジャズとは別に衝撃的な本に出会うのでした。それは、窮民革命論をとなえる竹中労が著した『山谷―都市反乱の原点』という本です。平岡正明は、『ジャズ宣言』のなかで、ジャズと暴力と革命は「腹ちがいの双生児」だと言っていましたが、ジャズや歌謡曲に「プロレタリアートの旋律」(井上光晴)を見るような独自の音楽論や、山谷や寿町や釜ケ崎や、あるいはパレスチナなどに視点を据えた、私たちの小市民的な日常を打ち砕くようなラジカルな革命論に、田舎の高校生の感性は、文字通り根底から打ち砕かれたのでした。

これは、『ジャズ宣言』の冒頭にかかげられた有名な一節です。

 どんな感情をもつことでも、感情をもつことは、つねに、絶対的に、ただしい。ジャズがわれわれによびさますものは、感情をもつことの猛々しさとすさまじさである。あらゆる感情が正当である。感情は、多様であり、量的に大であればあるほどさらに正当である。感情にとって、これ以下に下劣なものはなく、これ以上に高潔なものはない、という限界はない。(略)
 われわれは感情をこころの毒薬にひたしながらこっそり飼い育てねばならぬ。身もこころも智慧も労働もたたき売っていっこうにさしつかえないが、感情だけはやつらに渡すな。他人にあたえるな。

平岡正明『ジャズ宣言』(1979年増補版)


しかし、今やジャズは優雅な(?)老後をすごす団塊の世代の老人たちの手慰みものと化し、市庁舎前の「街角ライブ」のジャズの演奏に耳を傾ける人たちとその日の泊る場所と食べ物を確保するために行列を作る人々とは、まるで別世界の人間のように見えます。

この二日間は、横浜の至るところでジャズのコンサートが開かれており、そのコンサートをどこでも自由に見ることができるフリーパスを購入した人たちは、中国人観光客と同じように、胸に目印のバッチをつけているのですが、バッチをつけて通りを歩いているのは見事なほど老人ばかりでした。彼らは、市庁舎前の行列や寿町のうらぶれた光景は、まったく目に入っていないかのようです。かく言う私も、老後の不安に急きたてられせっせと年金保険料を納めていますが、しかし、「年金」に還元されない生の現実や『ジャズ宣言』が言うやつらに渡せない「感情」というのはあるでしょう。

辺見庸は、「かつて、ぜったいにやるべきときにはなにもやらずに、いまごろになってノコノコ街頭にでてきて、お子ちゃまを神輿にのせてかついではしゃぎまくるジジババども」と書いていましたが、聞けば、かつての全共闘運動の活動家たちも国会前のデモに参加して、SEALDsをさかんに持ち上げていたそうです。全共闘世代の「ジジババども」が40数年前に体験したのはその程度のものだったのかと言いたくなりますが、路上生活者たちの行列を一顧だにせずに、ジャズの演奏に老体をゆらしている「ジジババども」も同じでしょう。 

中上健次は、羽田で肉体労働をしながら小説を書いていた”修行時代”に、新宿のジャズ喫茶「ジャズ・ヴィレッジ」に通っていた頃のことをつぎのように回想しています。60年代後半のジャズが置かれた時代背景がよく出ているように思いますので、ちょっと長くなりますが引用します。

 その日から足を洗うまで五年間の生活の全てにジャズが入っていた。毎日、「ジャズ・ヴィレッジ」に通い、常連のチンピラ達と何をするでもなく一緒だった。めちゃくちゃな生活で、いわゆる今、流行の”限りなく透明に近いブルー”などではなく、ジャズの毎日は精液のように、一タブレットの睡眠薬の錠剤を噛みくだいて水で飲むその色のように白濁していた。私もそうだが、ジャズ・ヴィレッジの連中は、言ってみれば逃亡奴隷のようなもので、、ジャズを創りジャズを支えた黒人の状態に似ている。一世代遅れた埴谷雄高言う”ロックとファック”の時代には、そんなものはない。一つ通りの向こうのモダンジャズ喫茶店に、永山則夫が、ボーイとして働いていた。永山則夫が、連続ピストル射殺事件の犯人として逮捕されて、それを知った。もちろん、そのジャズ・ヴィレッジ界隈にうろつく者すべてが、永山則夫のように、家そのものが壊れ、家族がバラバラになり、貧困にあえいでいたのが、東京の新宿へ流出してきたという訳ではないはずだが、私にも常連にも、その後を振り返っても壊れた家があるだけだという形は、他人事とは思えなかった。(略)
 コルトレーンは、そんな聴き手のリアリティーに支えられて、コード進行から自由になり、音の消えるところまで行く。自由とは、疎外され抑圧され差別されることからの自由であり、ジャズの持つ黒人というアメリカのマイノリティの音楽という特性からの自由である。黒人という特性から出発して、特性から解き放たれる、と私はコルトレーンのジャズを聴きながら思ったのだった。
 特性からの自由、それは机上のものではなく、頭でだけ考えたものではない、切って血が出る自由である。コルトレーンのジャズを聴いて、音とは、文章と同じように肉体であると思った。

中上健次『夢の力』(1982年刊)所収・「路上のジャズ」


B級グルメやゆるキャラと同じようなまちおこしのコンテンツとしてのジャズではない、私たちの魂をゆさぶるような「路上のジャズ」はもう望むべくもないのでしょうか。

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2015.10.11 Sun l 横浜 l top ▲