昨日、作家の野坂昭如氏が亡くなったというニュースがありました。野坂昭如氏は、私たちより上の世代にとって、五木寛之氏と人気を二分をした文壇のスタア(!)でした。当時の若者たちにとって、それくらい娯楽小説は文化的に大きな存在だったのです。
私たちより上の世代は、経済的な理由で上の学校に行ってない人も多いのですが、しかし、文字を読む習慣を身につけている人が多くいました。当時は、そんな文字の文化がリスペクトされる時代(教養の時代)でもあったのです。
もう20年以上も前の話ですが、末期ガンにおかされたガールフレンドのお父さんを入院している病院に見舞ったことがありました。お父さんは貧しい母子家庭に育ち、中学を出ると横浜の中華街で修業してコックとしての腕を磨き、やがて自分の店をもった苦労人でした。
ガールフレンドは、お父さんはろくに学校にも行ってないのに、私なんかより漢字を知っているのでびっくりすると言ってました。昔の人は、学校に行ってなくても、そうやって自分で漢字を覚え本を読む楽しみを見つけていたのです。最近の若者は、スマホで検索するときも、文字ではなく画像や動画で検索するのが主流だそうですが、そんな”痴的”なネット文化からは考えられない時代がかつてあったのです。
病室に行くと、ベットの脇のテーブルの上に、『オール読物』と文庫本が何冊か置かれていました。私が、「作家は誰が好きですか?」と訊いたら、「最近じゃ、野坂昭如だな」「あいつの文章が好きや。夫婦善哉の織田作之助に似ているやろ」と言ってました。
野坂昭如氏は、世間からは“焼け跡闇市派“と呼ばれ、終戦直後、餓死した幼い妹の亡き骸を抱え、焼け野原に立ち尽くした戦災孤児の自分が原点だと常々言っていました。参院選に出馬したときのスローガンは、「二度と飢えた子どもの顔を見たくない」というものでした。
それに対して、五木寛之氏は、みずからの引き揚げ体験から「二度と飢えた親の顔を見たくない」と言ってました。食べ物がないとき、自分が食べなくても子どもに食べさせるというのは平時の発想で、極限状況になると、親は子どもの食べ物を横取りしてでも生き残ろうとするものだそうです。中国残留孤児も、終戦の混乱ではぐれたということになっていますが、多くは置き去りにされたり売られたりしたのだと言われています。
折しも今、私は、韓国の検察当局から訴追された朴裕河氏の『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版)を読んでいるのですが、中学1年のときピョンヤンで終戦を迎えた五木寛之氏は、引揚げの際、みずからが体験したつぎのようなエピソードをエッセイに書いていました。
数十人の日本人グループでトラックを買収して、深夜、南下している途中、ソ連軍の検問にひっかかり、お金を出せ、お金がなければ女を出せと言われたそうです。それも三人出せと。すると、グループのリーダーたちが相談して、三人の女性が指名されたのでした。
慰安婦問題が典型ですが、そういった赤裸々な体験について、みんな口を噤んで「戦後」を仮構してきたのです。五木寛之氏は、戦後の私たちはそういった犠牲の上に成り立っている、常にそんな後ろめたさのなかにいる、というようなことを書いていましたが、野坂昭如氏にとって、その犠牲や後ろめたさに象徴されるのが、餓死した幼い妹なのでしょう。
野坂昭如氏は享年85歳でした。五木寛之氏は83歳です。子どもの頃戦争を体験した世代も、既に80を越え鬼籍に入る時代になったのです。そして今、「戦争を知らない」世代が再び戦争を煽っているのです。
野坂氏も五木氏もともに、早稲田を「横に出た」あと、黎明期のマスコミの周辺で、放送作家や作詞家やコピーライターなどをやって糊口を凌いでいました。彼らは、わずか10数年前の餓死した幼い妹や過酷な引揚体験の記憶を抱えて、東京で”マスコミ無頼”のような生活を送っていたのです。そして、小説家として華々しくデビューして、文字の文化の時代のスタアになったのでした。
成田空港反対運動のシンボル的存在でもあった反対同盟委員長の戸村一作氏が、「革命の斥候を国会へ!」というスローガンを掲げて参院選の全国区に出馬したとき、東京地方区で出馬していたのが野坂昭如氏でした。高田馬場の予備校に入るために上京したばかりの私は、新宿の駅頭で、二人が揃って演説しているのを見ていました。すぐ傍では、新左翼系の学生が民青の学生と殴り合いをしていました。私の周辺では、「どうして野坂なの」とみんな嘲笑していました。そのときも野坂氏は、「二度と飢えた子どもの顔を見たくない」と言っていました。
私は、野坂昭如氏と言えば、あのとき、アルタのネオンサインをバックに、選挙カーの上で、演説のあとに「黒の舟歌」を唄っていた姿をなぜか真っ先に思い出すのです。
野坂氏について、世間では無頼派のようなイメージがありましたが、しかし、私のなかでは、みずから進んでピエロ役を引き受けたような、そんなイメージがありました。
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五木寛之の思い出
私たちより上の世代は、経済的な理由で上の学校に行ってない人も多いのですが、しかし、文字を読む習慣を身につけている人が多くいました。当時は、そんな文字の文化がリスペクトされる時代(教養の時代)でもあったのです。
もう20年以上も前の話ですが、末期ガンにおかされたガールフレンドのお父さんを入院している病院に見舞ったことがありました。お父さんは貧しい母子家庭に育ち、中学を出ると横浜の中華街で修業してコックとしての腕を磨き、やがて自分の店をもった苦労人でした。
ガールフレンドは、お父さんはろくに学校にも行ってないのに、私なんかより漢字を知っているのでびっくりすると言ってました。昔の人は、学校に行ってなくても、そうやって自分で漢字を覚え本を読む楽しみを見つけていたのです。最近の若者は、スマホで検索するときも、文字ではなく画像や動画で検索するのが主流だそうですが、そんな”痴的”なネット文化からは考えられない時代がかつてあったのです。
病室に行くと、ベットの脇のテーブルの上に、『オール読物』と文庫本が何冊か置かれていました。私が、「作家は誰が好きですか?」と訊いたら、「最近じゃ、野坂昭如だな」「あいつの文章が好きや。夫婦善哉の織田作之助に似ているやろ」と言ってました。
野坂昭如氏は、世間からは“焼け跡闇市派“と呼ばれ、終戦直後、餓死した幼い妹の亡き骸を抱え、焼け野原に立ち尽くした戦災孤児の自分が原点だと常々言っていました。参院選に出馬したときのスローガンは、「二度と飢えた子どもの顔を見たくない」というものでした。
それに対して、五木寛之氏は、みずからの引き揚げ体験から「二度と飢えた親の顔を見たくない」と言ってました。食べ物がないとき、自分が食べなくても子どもに食べさせるというのは平時の発想で、極限状況になると、親は子どもの食べ物を横取りしてでも生き残ろうとするものだそうです。中国残留孤児も、終戦の混乱ではぐれたということになっていますが、多くは置き去りにされたり売られたりしたのだと言われています。
折しも今、私は、韓国の検察当局から訴追された朴裕河氏の『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版)を読んでいるのですが、中学1年のときピョンヤンで終戦を迎えた五木寛之氏は、引揚げの際、みずからが体験したつぎのようなエピソードをエッセイに書いていました。
数十人の日本人グループでトラックを買収して、深夜、南下している途中、ソ連軍の検問にひっかかり、お金を出せ、お金がなければ女を出せと言われたそうです。それも三人出せと。すると、グループのリーダーたちが相談して、三人の女性が指名されたのでした。
指名された三人は全員の視線に追いつめられたように、トラックの荷台の隅に身をよせあって、顔をひきつらせていた。
「みんなのためだ。たのむよ」
と、リーダー格の男が頭をさげて言う。言葉はていねいだが、いやなら力ずくでも突きだすぞ、といった感じの威圧的な口調だった。
しばらく沈黙が続いたあと、その一人が、黙ってたちあがった。あとの二人も、それに続いた。
運転手に連れられて三人の女性たちはトラックを降りて姿を消した。車内のみんなは黙っていたが、ひとりの男が誰にともなく言った。
「あの女たちは、水商売の連中だからな」
一時間ほどして三人がボロボロのようになって帰ってくると、みんなは彼女たちをさけるようにして片隅をあけた。
「ソ連兵に悪い病気をうつされているかもしれんから、そばに寄るなよ」
と、さっきの男が小声で家族にささやいた。やがてトラックが走りだした。
私たちは、そんなふうにして帰国した。同じ日本人だから、などという言葉を私は信じない。
『みみずくの夜メール』(幻冬舎文庫)
慰安婦問題が典型ですが、そういった赤裸々な体験について、みんな口を噤んで「戦後」を仮構してきたのです。五木寛之氏は、戦後の私たちはそういった犠牲の上に成り立っている、常にそんな後ろめたさのなかにいる、というようなことを書いていましたが、野坂昭如氏にとって、その犠牲や後ろめたさに象徴されるのが、餓死した幼い妹なのでしょう。
野坂昭如氏は享年85歳でした。五木寛之氏は83歳です。子どもの頃戦争を体験した世代も、既に80を越え鬼籍に入る時代になったのです。そして今、「戦争を知らない」世代が再び戦争を煽っているのです。
野坂氏も五木氏もともに、早稲田を「横に出た」あと、黎明期のマスコミの周辺で、放送作家や作詞家やコピーライターなどをやって糊口を凌いでいました。彼らは、わずか10数年前の餓死した幼い妹や過酷な引揚体験の記憶を抱えて、東京で”マスコミ無頼”のような生活を送っていたのです。そして、小説家として華々しくデビューして、文字の文化の時代のスタアになったのでした。
成田空港反対運動のシンボル的存在でもあった反対同盟委員長の戸村一作氏が、「革命の斥候を国会へ!」というスローガンを掲げて参院選の全国区に出馬したとき、東京地方区で出馬していたのが野坂昭如氏でした。高田馬場の予備校に入るために上京したばかりの私は、新宿の駅頭で、二人が揃って演説しているのを見ていました。すぐ傍では、新左翼系の学生が民青の学生と殴り合いをしていました。私の周辺では、「どうして野坂なの」とみんな嘲笑していました。そのときも野坂氏は、「二度と飢えた子どもの顔を見たくない」と言っていました。
私は、野坂昭如氏と言えば、あのとき、アルタのネオンサインをバックに、選挙カーの上で、演説のあとに「黒の舟歌」を唄っていた姿をなぜか真っ先に思い出すのです。
野坂氏について、世間では無頼派のようなイメージがありましたが、しかし、私のなかでは、みずから進んでピエロ役を引き受けたような、そんなイメージがありました。
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