バカラ


桐野夏生の新作『バカラ』(集英社)を読みました。帯には、「今、この時代に、読むべき物語。」という惹句とともに、「ノンストップ・ダーク・ロマン」という語句がありました。どういう意味だろうと思ってネットで調べても、『バカラ』以外にこの語は出てきませんので、もしかしたら造語なのかもしれません。

しかし、私は、この小説は「ノンストップ」では読めませんでした。途中、何度も挫折しそうになりました。「面白くていっきに読みました」というレビューを見ると、別に皮肉でもなんでもなく、すごいなと思います。こんなのが面白んだと感心します(これは皮肉です)。

群馬県O市で生まれたブラジル日系人の子ども「ミカ」。彼女は、家庭不和から夫と別れあらたな職を求めて渡航した母親に連れられて、中東のドバイに渡ります。ところが、母親は現地で知り合った情人に殺害され、「ミカ」は養子売買のシンジケートに売られるのです。ドバイのショッピングモールの奥にあるベビースーク。そこで売られている子どもたちは、全員「バカラ」と呼ばれています。「バカラ」とは、”神の恩寵”という意味です。2歳の「ミカ」=「バカラ」は、2万ドルで売られていました。

日本人の女性に買われて日本に戻った「バカラ」。しかし、東日本大震災によって、「バカラ」の運命は、さらに大人たちの思惑に翻弄されるのでした。福島原発の爆発直後に養父に連れられてフクシマに入った「バカラ」は、被爆して、のちに甲状腺ガンになっていることがわかります。「悪の権化」のような養父の手から逃れ、置き去りにされた犬とともに「警戒区域」の納屋のなかにいるところをペットを救済するボランティアの「爺さん決死隊」に発見された「バカラ」は、反原発派のメンバーとともに全国を放浪する旅に出ます。

当時の日本は、東日本は「警戒区域」に指定されて人口が激減し、首都も大阪に移り、東西二つに分裂した状態になっており、カルト宗教や排外主義(レイシズム)が跋扈する荒廃した世相にあります。そんななかで、被害を隠蔽し原発事故の収束をはかりたい推進派や警察は、さまざまな陰謀をめぐらし反対派の抹殺を狙っています。その数奇な運命から反原発派のシンボルのようになった「バカラ」の周辺でも、親しい人がつぎつぎと不可解な死に方をするのでした。

しかし、私には、この小説は”荒唐無稽”としか思えませんでした。エンタテインメントとは言え、話の展開が取ってつけたようにめまぐるしく変わるため、登場人物も尻切れトンボのように、途中であっけなくいなくなります。その唐突感は、『だから荒野』とよく似ていました。

それは、この小説も”反原発”とかいった観念が優先しているからではないか。小説というのは、絶対的に自由なものです。あらゆる観念から自由だし、自由でなければならないのです。まず”反原発”(それは、”社会主義バンザイ”や”戦争反対”でも同じですが)ありきでは、ステレオタイプで皮相的なつまらない作品になるのは当然です。自由であるからこそさまざまな人間も描けるし、奥行きのある面白い小説になるのです。自由であるということと”荒唐無稽”ということは、必ずしもイコールではないのです。

ジャンルは違いますが、たとえば、井上光晴の『地の群れ』などを対置すれば、それがよくわかります。戦後文学、特に左翼体験をひきずっていた近代文学派(系統)の作家たちにとって、観念との格闘は切実なものでした。ブレイディみか子氏の「右か左かではなく上か下か」ということばを借りれば、文学もまた「右か左かではなく上か下か」なのです。

「桐野文学の最高到達点」という惹句もありましたが、『ハピネス』などと比べてもとてもそうは思えませんでした。


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2016.04.01 Fri l 本・文芸 l top ▲