最近、暇なとき、よくインスタグラムを見ています。私は、写真屋の息子でしたので、他人の写真を見るのは昔から好きでした。

インスタグラムにアップされている写真を見るにつけ、ホントにみんな写真を撮るのがうまいなと感心させられます。

写真館をやっていた父親は、いつも私たちに、写真を撮るときはどんどん前に出てシャッターを押せと言ってました。恥ずかしいとか邪魔になるとか思ったらダメだ、遠慮なく前に出て撮った写真がいい写真なんだと言ってました。

家には小さい頃から、「アサヒカメラ」や「カメラ毎日」や「日本カメラ」などのカメラ雑誌がありましたが、そのなかの写真コンテストの入選写真を見ると、たしかに28ミリの広角レンズで(前に出て)撮った写真ばかりでした。インスタグラムに掲載されている写真にも、そんな「前に出て撮った」写真が多いのです。デジタルの時代になり、写真は手軽で身近なものになりましたが、父親が言っていたいい写真、上手な写真がホントに多いのです。

ただ、一方で、テクニックは申し分ないものの、なにかが足りないような気がしてならないのです。それは、テクニックとは別のものです。そして、私は、大塚英志が『atプラス』27号(太田出版)に寄稿した「機能性文学論」のなかで書いていた、つぎのような文章を思い出したのでした。

(略)何年か前、まんがの書き方を大学で教えていて印象深かったのは、かつて「ペンタッチ」と呼ばれた描線のくせ(註:原文は傍点)を彼らの多くが、忌避したがるという傾向だった。確かにまんがの描線は「きれいで細やかだが単調」というのが主流になっている。ペンタッチに作画上の個性を求めるという、ちょうど文学における「文体」に近いものがまんが表現でも忌避されているわけだ。


大塚英志によれば、堀江貴文(ホリエモン)は、かつて『ユリイカ』2010年8月号(青土社)の”電子書籍特集”で、「どうでもいい風景描写とか心理描写」をとっぱらって、尚且つ「要点を入れて」あるような小説をみずからの「小説の定義」としてあげていたそうです。それは、文学における文体の否定であり、文学に作者性=個性はいらないという、文字通り身も蓋もない”暴論”です。そこには、守銭奴の彼が信奉する経済合理性と通底する考えが伏在しているのでしょう。

ただ、大塚英志は、時代の流れのなかに、ホリエモンのように文学に「情報」(機能性)のみを求める傾向があるのもたしかだと言います。そして、「まんが表現における『ペンタッチの消滅』」は、「自我の発露である『文体』の消滅」とパラレルな関係にあるのだと言うのです。(余談ですが、私は、文体の消滅=「文学の変容」に関して、又吉直樹の『火花』と芥川龍之介の『或阿呆の一生』の同じ花火に関する描写を比較した部分がすごく説得力があって面白かったです)

それは写真も同じではないでしょうか。風景・心理描写やペンタッチをうっとうしいとか恥ずかしいとか思ったりする今の傾向は、写真においても個性の消滅というかたちで表れているのではないか。たしかに、インスタグラムにアップされている写真から見えるのは、個性より「情報」です。そこにあるのは、パターン化された構図と撮る人と撮られる人(もの)との無防備で弛緩した関係性です。おそらく二者の間になんらかの緊張感のようなものが存在すると、うっとうしいとか恥ずかしいとかいう感覚になるのでしょう。こんな機能性ばかりを求める摩耗した感覚こそ”今様”と言えるのかもしれません。

でも、これだけは言えるのは、いくら文学やまんがや写真の表現が「変容」しようとも、私たちの人生は「変容」しようがないということです。「快適」や「癒し」だけが人生ではないのです。他人から勇気やパワーをもらったりできるほど、人生は単純ではないということです。
2016.04.10 Sun l 本・文芸 l top ▲