私は、マスコミが血眼になって舛添東京都知事を叩いている図には、当初からずっと違和感を抱いていました。文字通り坊主憎けりゃ袈裟まで憎いような感じで、”舛添叩き”はエスカレートするばかりですが、「どうして舛添だけが」という気持はどうしてもぬぐえませんでした。

舛添知事に比べ、週に3日しか登庁せず、同じように”大名旅行”が指摘されていた石原慎太郎元知事は、一部の新聞を除いて、マスコミから叩かれることはほとんどありませんでした。石原元知事の場合、都のプロジェクトに息子を登用するなど、その公私混同ぶりは舛添知事の比ではありませんでした。でも、石原元知事は不問に付され、舛添知事だけが叩かれているのです。なにか変です。

そう思っていたら、リテラにつぎのような記事がアップされていました。

リテラ
舛添より酷かった石原慎太郎都知事時代の贅沢三昧、登庁も週3日! それでも石原が批判されなかった理由

たしかに、今回の”舛添叩き”は、週刊文春の記事によってふってわいたようにはじまったのです。このブログでも何度も指摘していますが、週刊文春にしても週刊新潮にしても、石原を批判することは絶対にないのです。それは、文壇タブーがあるからです。石原の公私混同は、作家と政治家の混同でもあるのですが、その文壇タブーをいいことにやりたい放題のことをやってきたのが石原なのです。そんな文壇タブーを真に受けて、世のサラリーマンたちは石原を「理想の上司」にあげていたのです。それは、石原だけでなく、田母神に60万票を投じた東京の有権者と同じおバカな構造と言えるでしょう。

また、文春の”舛添叩き”に我が意を得たとばかりにはしゃいでいる野党の政治家などは、マスコミの空気に乗って舛添を「批判」しているビートたけしや橋下徹と同じただ機を見るに敏なだけの”下等物件”(©竹中労)と言えるでしょう。Twitterに「文春快進撃」と書いていた中東専門のジャーナリストなんて、どこまでバカなんだと言いたくなりました。

舛添が叩かれた背景に、韓国学園への都有地の貸出しやヘイト・スピーチに対する発言などによって、ネットで舛添が”親韓派”と見られていたことが関係しているように思えてなりません。それに、安倍と距離を置き、オリンピック問題でぎくしゃくしている都知事の首のすげ替えを狙う与党の思惑などが絡んで、文春に標的にされたのではないのか。そこにも、「旧メディアのネット世論への迎合」(大塚英志)や「ネットとマスメディアの共振が『私刑化』する社会を拡大させている」(藤代裕之)構造が伏在しているように思えてなりません。

能天気な文春賛美は、「ヘイト・スピーチ対策法」と似ています。法律によって、やつら(国)に”権限”を与え、ヘイト・スピーチをおこなっている下衆な人間たちを締め上げてもらうという甘い夢を抱いているのかもしれませんが、でも、やつらに”権限”を与えれば、その”権限”がいつ自分たちに向かってくるかもしれないのです。「ヘイト・スピーチ対策法」が”理念法”で、罰則規定がないからというのは、理由にはならないでしょう。”理念法”であっても、”裁量”と”権限”は付与されるのです。そこには、国家や法律というものに対する能天気な認識や期待感が垣間見えて仕方ないのです。

「タブーなきスキャンダリズム」を標榜していたのは『噂の真相』でしたが、文春の場合はタブー満載のきわめて眉唾なスキャンダリズムです。自分たちが文春の掌の上で弄ばれているだけだという自覚もなしにはしゃいでいるとしたら、政治家やジャーナリスト失格と言うしかないでしょう。


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2016.05.13 Fri l 社会・メディア l top ▲