”舛添叩き”は、いよいよこの国あげての”いじめ”のような様相を呈しています。少しでも異議を唱えようものなら、逆に袋叩きに遭いそうな感じです。でも、このような”絶対的な正しさ”は、常に眉に唾して見る必要があるでしょう。況や政治においてをやです。
舛添知事は、先日、みずからの給与を半分に減額する条例案を提出すると言ってましたが、昨日の総務委員会の集中審議では、とうとう全額返上すると言い出す始末です。なんだか憐れみさえ覚えました。
以前、都営バスが労組の集会や旅行に私的利用されていた問題がありましたが、舛添知事は、そんな長年の自公体制で伏魔殿と化している都庁の税金を食い物にする構造に悪ノリしただけなのでしょう。石原は叩かれず、どうして自分だけが叩かれるのかと思っているのかもしれません。都庁の役人たちの天下りや渡りや裏金の問題がいっさい問われず、舛添のセコい(あまりにもセコい!)政治資金の用途や公用車の使い方だけがやり玉にあがるこの奇異な光景。“小悪“は徹底的に叩かれ、文壇タブーで守られた“大悪“は、金のない人間はセコいですななどと言って高笑いしているのです。
しかし、冷静になって考えてみれば、”舛添叩き”の陰で、電通が主導した東京五輪の裏金招致疑惑や「パナバ文書」であきらかにされた大企業のタックスヘイブン(租税回避)の問題が、片隅に追いやられてしまったのです。なんだかメディアは、これらの問題を回避するために、ことさら舛添を叩いているような感じさえするのでした。そこにこの集団ヒステリーの本質が表れているのではないか。

上の三バカ大将のグリコの一等賞のような写真は、ネットで拾ったパロディ画像です。このように、舛添は自公の推薦で都知事になったのです。安倍総理と山口代表は、「都知事は舛添さんしかいません!」と絶叫したのです。しかし、”舛添叩き”ではなぜか、舛添を担いだ自公への批判は回避されているのでした。舛添は都知事の資質に欠けるとかなんとか批判するけれど、それを担いだ自公に批判が向かうことはないのです。これも奇異な光景と言えるでしょう。
昨日の集中審議で、公明党の女性都議は、舛添知事は東日本大震災の現地に一度も行ってない、こんな知事に復興五輪を語る資格はない、辞任すべきだ、などと難癖としか言いようのない論法で(しかも、芝居がかった言い方で)辞任をせまっていましたが、厚顔無恥とはこのことでしょう。舛添を推薦したのはどこの政党なんだと言いたくなりました。公明党に比べれば、舛添追及に及び腰の自民党のほうがまだしも”正直”に思えるくらいです。なんのためらいもなく(命令一下)、平気で手のひら返しをするこの党の全体主義的な体質とその怖さを再認識させられた気がしました。
舛添に211万票を入れた東京都の有権者も然りです。今になって「ダマされた」「不誠実だ」などと言ってますが、彼らは戦争でも原発事故でも汚職でもなんでも、そうやっていつも「ダマされた」と被害者ズラするのです。それが彼らが”衆愚”であるゆえんでしょう。
自民党から共産党まで、産経から朝日まで、ファシストからコミュニストまで、ネトウヨからSEALDsまで、隣のポチから向かいのミーちゃんまで、改憲だろうが護憲だろうが関係なく、みんな口をそろえて舛添に悪罵を浴びせるこの光景は、”小保方バッシング”とよく似ています。小保方さんも舛添も、別に法律に違反しているわけではないのです。勝手に疑惑だと騒いでいるだけなのです。これでは、どんな問題でも低劣なスキャンダルと化し、社会的に抹殺することが可能でしょう。
多くの国民は、舛添はいつ警察に逮捕されるのだろうと思っているのかもしれません。そういう人たちはビョーキなのです。ビョーキにさせられたのです。日本の社会は同調圧力の強い社会だなどと、日頃は高尚なご託宣を垂れるメディアも、いざとなれば「撃ちてし止まん」「一億総火の玉」の隊列に加わるのです。そして、最後に残るのは、全体主義のことばだけです。
こうなったら次の都知事は選挙なんかせずに、文春に選んでもらえばいいのです。選挙しても意味がないのですから。
関連記事:
”舛添叩き”への違和感
小保方バッシングとはなんだったのか
舛添知事は、先日、みずからの給与を半分に減額する条例案を提出すると言ってましたが、昨日の総務委員会の集中審議では、とうとう全額返上すると言い出す始末です。なんだか憐れみさえ覚えました。
以前、都営バスが労組の集会や旅行に私的利用されていた問題がありましたが、舛添知事は、そんな長年の自公体制で伏魔殿と化している都庁の税金を食い物にする構造に悪ノリしただけなのでしょう。石原は叩かれず、どうして自分だけが叩かれるのかと思っているのかもしれません。都庁の役人たちの天下りや渡りや裏金の問題がいっさい問われず、舛添のセコい(あまりにもセコい!)政治資金の用途や公用車の使い方だけがやり玉にあがるこの奇異な光景。“小悪“は徹底的に叩かれ、文壇タブーで守られた“大悪“は、金のない人間はセコいですななどと言って高笑いしているのです。
しかし、冷静になって考えてみれば、”舛添叩き”の陰で、電通が主導した東京五輪の裏金招致疑惑や「パナバ文書」であきらかにされた大企業のタックスヘイブン(租税回避)の問題が、片隅に追いやられてしまったのです。なんだかメディアは、これらの問題を回避するために、ことさら舛添を叩いているような感じさえするのでした。そこにこの集団ヒステリーの本質が表れているのではないか。

上の三バカ大将のグリコの一等賞のような写真は、ネットで拾ったパロディ画像です。このように、舛添は自公の推薦で都知事になったのです。安倍総理と山口代表は、「都知事は舛添さんしかいません!」と絶叫したのです。しかし、”舛添叩き”ではなぜか、舛添を担いだ自公への批判は回避されているのでした。舛添は都知事の資質に欠けるとかなんとか批判するけれど、それを担いだ自公に批判が向かうことはないのです。これも奇異な光景と言えるでしょう。
昨日の集中審議で、公明党の女性都議は、舛添知事は東日本大震災の現地に一度も行ってない、こんな知事に復興五輪を語る資格はない、辞任すべきだ、などと難癖としか言いようのない論法で(しかも、芝居がかった言い方で)辞任をせまっていましたが、厚顔無恥とはこのことでしょう。舛添を推薦したのはどこの政党なんだと言いたくなりました。公明党に比べれば、舛添追及に及び腰の自民党のほうがまだしも”正直”に思えるくらいです。なんのためらいもなく(命令一下)、平気で手のひら返しをするこの党の全体主義的な体質とその怖さを再認識させられた気がしました。
舛添に211万票を入れた東京都の有権者も然りです。今になって「ダマされた」「不誠実だ」などと言ってますが、彼らは戦争でも原発事故でも汚職でもなんでも、そうやっていつも「ダマされた」と被害者ズラするのです。それが彼らが”衆愚”であるゆえんでしょう。
自民党から共産党まで、産経から朝日まで、ファシストからコミュニストまで、ネトウヨからSEALDsまで、隣のポチから向かいのミーちゃんまで、改憲だろうが護憲だろうが関係なく、みんな口をそろえて舛添に悪罵を浴びせるこの光景は、”小保方バッシング”とよく似ています。小保方さんも舛添も、別に法律に違反しているわけではないのです。勝手に疑惑だと騒いでいるだけなのです。これでは、どんな問題でも低劣なスキャンダルと化し、社会的に抹殺することが可能でしょう。
多くの国民は、舛添はいつ警察に逮捕されるのだろうと思っているのかもしれません。そういう人たちはビョーキなのです。ビョーキにさせられたのです。日本の社会は同調圧力の強い社会だなどと、日頃は高尚なご託宣を垂れるメディアも、いざとなれば「撃ちてし止まん」「一億総火の玉」の隊列に加わるのです。そして、最後に残るのは、全体主義のことばだけです。
こうなったら次の都知事は選挙なんかせずに、文春に選んでもらえばいいのです。選挙しても意味がないのですから。
関連記事:
”舛添叩き”への違和感
小保方バッシングとはなんだったのか