
芥川賞を受賞した村田紗耶香の「コンビニ人間」(『文藝春秋』9月号)を読みました。
この小説を「現代のプロレタリア文学」と評した人がいましたが、つぎのような表現をそう解釈したのかもしれません。
(略)かごにセールのおにぎりをたくさん入れた客が近づいてくるところだった。
「いらっしゃいませ!」
私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。
そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。
朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。
選考委員の村上龍は、選評で、みずからが司会を務める「カンブリア宮殿」で見聞きしたことを引き合いに出して、企業の教育やトレーニングに共通している「挨拶」の徹底は、「一種の『規律』であり、いろんな意味での、会社への同化・帰属意識の醸成である」と書いていましたが、しかし、これってただ当たり前のことを言っているにすぎないのです。それをさも自分が“発見“したかのように、フーコーまがいの表現でもったいぶって書いているだけです。
村上龍が働いたことがあるのは、デビューする前に、霞が関ビルでガードマンのアルバイトをしたことくらいで(その際、エレクトーンを弾いていた奥さんと知り合い結婚したと言われています)、彼は、私たちが想像する以上に“世間知らず“なのです。だから、「カンブリア宮殿」に出てくる海千山千の「社長」たちをあのように「すごい」「すごい」と言って感嘆するのでしょう。
「コンビニ人間」を「現代のプロレタリア文学」と評するのも、村上龍と同じような“世間知らず“の読み方だとしか思えません。
この小説に“社会性“があるとすれば、大学1年のときから18年間、就職もせずに同じコンビニでアルバイトをつづけている、36歳・未婚・恋愛経験なしの主人公に向けられる“世間の目”に、かろうじて見ることができるだけです。
コンビニで働いていると、そこで働いているということを見下されることが、よくある。興味深いので私は見下している人の顔を見るのが、わりと好きだった。あ、人間だという感じがするのだ。
差別する人には私から見ると二種類あって、差別への衝動や欲望を内部に持っている人と、どこかで聞いたことを受け売りして、何も考えずに差別用語を連発しているだけの人だ。
そして、そんな“世間の目”を代弁するような屁理屈をこねまわす同じ「万年フリーター」(私の造語です)の男と出会い、奇妙な同居生活をはじめることで、この小説は、作者の真骨頂とも言うべき「普通ではない」世界に入っていくのでした。
しかし、「普通ではない」世界から陰画のように描かれた「普通」の世界(世間)は、今どきのテレビドラマでもお目にかかれないような、単純化され戯画化されたそれでしかありません。
「コンビニ人間」は、緻密な心理描写を排した簡潔な文体で、しかもユーモアもあり、とても読みやすい小説です。おそらく芥川賞受賞の話題性で映像化されるでしょうが、映像化に適している作品とも言えます。ユーモアもお笑い芸人のギャグレベルのもので、その意味でも面白くて受け入れやすいと言えるでしょう。でも、それだけです。読んだあとになにか考えさせられるような小説の奥深さはありません。予定調和のウケを狙った小説と言えないこともないのです。
今や小説家は、“世間知らず“の代名詞になっているかのようです。選評を読んでも、トンチンカンなものが目立ちます。なかでも川上弘美のトンチンカンぶりは相変わらずですが、今回の選評では、崔実の「ジニのパズル」をどう評価するかに、彼らの小説家としての”現実感覚”が試されているように思いました。
選評では、高樹のぶ子と島田雅彦が「ジニのパズル」を推していることがわかります。
高樹のぶ子は、「ジニのパズル」について、つぎのように書いていました。
一読したとき、頬を叩かれたような衝撃を受けた。(略)
胸を打つ、という一点ですべての欠点に目をつむらせる作品こそ、真に優れた作品ではないのか。かつて輝かしい才能が、マイノリティパワーとして飛び出して来たことを思い出す。
一方、山田詠美は、「ジニのパズル」を散々にこき下ろしていました。
『ジニのパズル』。ここにも、のっけから<感受性>という言葉が出ているよ。今度は感受性ばやり? そして、文章が荒過ぎる。特に比喩。どうして、こんなにも大仰な擬人化? <雨の滴が窓ガラスに体当たりするようにぶつかって、無念だ、と嘆きながら流れ落ちていった>だって…! わははは、滑稽過ぎるよ。
島田雅彦は、「コンビニ人間」と「ジニのパズル」をそれぞれ「能天気なディストピア」「マイナー文学の傑作」と評して、つぎのように書いていました。
タイトルとテーマ、コンセプト、そしてキャラだけでもたぶん小説は成立するだろう。叙述や会話のコトバから一切オーラを剥奪しても、心理の綾をなぞることを省いても、ギリギリセーフだ。セックス忌避、婚姻拒否というこの作者にはおなじみのテーマを『コンビニ人間』というコンセプトに落とし込み、奇天烈な男女のキャラを交差させれば、緩い文章も大目に見てもらえる。
全世界的に外国人排斥と自民族中心主義が広がる中、移民二世、三世は移民先の文化に適応するか、ルーツの民族主義に回帰するか、あるいはハイブリッド文化を構築するか、パンク文化するか、やけっぱちのテロリズムに走るか、これは文化の未来を左右し、文化の不安をかき立てる。在日三世の韓国人が日本の学校から、なぜか朝鮮学校を経て、米オレゴン州へと向かった少女の反抗と葛藤の記録は肉弾的リアルティに満ちている。(略)試行錯誤のパズルを繰り返すジニの姿こそが世界基準の青春なのかもしれない。荒削りで稚拙な表現を指摘する委員が多かったが、それは受賞作にも当てはまるので、この作品の致命的欠点とはいえない。受賞は逃したが、『ジニのパズル』はマイナー文学の傑作であることは否定できない。
芥川賞の選考委員なんて町内会のお祭りの実行委員みたいなものなので、マスコミ受けする又吉の「火花」のつぎは、読者に迎合して「大目に見てもらえる」小説を選んだのかもしれません。
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