生活保護関連の仕事をしている人と話をしました。そのなかで、いわゆる「貧困ビジネス」の話になりました。業者は、ホームレスの人たちに声をかけて、自分が管理するアパートなどに住まわせます。そして、役所に連れて行き、申請の手続きをサポートして生活保護を受給させるのです。業者は弁当を支給して、保護費のなかから住居費だけでなく食費も徴収するのだそうです。そのため、入居者の手元に残るのは月に1~3万円くらいだとか。なかには、支給された保護費を一括管理して、毎日500円や1000円づつ渡したりするケースもあるそうです。

たしかに、受給者を食い物にしていると言えますが、ただ、すべてを否定できない側面もあるのだと言ってました。役所は申請主義なので、自分で申請しないと生活保護のようなセーフティネットも利用することができません。ホームレスの人たちのなかには、知的障害のある人も少なからずいるので、最初からセーフティネットの基本的な知識すらない人もいるそうです。また、コミュニケーション能力が劣っていたり、対人恐怖症だったりして、役所に行ったものの、窓口で冷たくあしらわれて、申請をあきらめた人も多いのだとか。家族や地域や職場などの「中間共同体」からはじき出され、ひとりで生きていかざるをえないにもかかわらず、自分ひとりで生きていく能力も術も持ってない人たちも多いのです。

「貧困ビジネス」の業者は、そんな人たちに「住まいも食事も用意するよ」と声をかけるのです。不思議なことに、ひとりで行くと「水際作戦」で追い払われるのに、業者と行けば申請がとおりやすいのだそうです。

そうやって住まいと食事は確保されるのです。たしかに搾取はされるかもしれませんが、少なくとも路上生活から脱出できることは事実でしょう。都内では、毎日のように路上生活者が行き倒れ、尊い命を失っていますが、そういった明日をも知れない絶望的な境遇から脱出できることは事実なのです。

私がよく行く街にも、その手の施設と思しき建物があります。見ると、施設を運営する会社は、別の場所で弁当の仕出しもやっています。おそらく入居者に弁当も支給しているのでしょう。

私は、これを”必要悪”と言うのだろうかと思いました。一方では、サイゾーが運営するビジネスジャーナルのように、”貧困女子高生”をバッシングするために、記事をねつ造するようなメディアもあります。そんな”ゲスの極み”に比べれば、(誤解を怖れずに言えば)ある意味では、「貧困ビジネス」のほうが制度の狭間に取り残された人たちの貧困の現実に「向き合っている」と言えなくもないのです。

受給者の生活については、バッシングの記事ばかりで、その現実がなかなか表に出てこないのですが、先日、「閑人者通信」のブログ主が、みずからの生活の現実をつぎのように書き綴っていました(長くなりますが、引用します)。いつも言うことですが、これは決して他人事ではないのです。明日は我が身かもしれないのです。

長寿という思わぬ穽陥に対する国家の保険である基礎年金は制度が破綻している。
一次産業や自営業、非正規で生きてきて金融資産がない場合、賃貸アパートに暮らしながら月に6万5千円で暮らすのはなかなかに工夫を必要とする。
多分、都会では困難だろう。
国民年金が20歳から60歳までの全国民に義務づけられている「税」である以上、保険金を全額納めたとしても老後それだけでは食えないというのは明らかな制度設計のミスである。
リタイアするまでに預貯金などの資産を蓄えておけという人もいる。
それができる人間もいればできない人もいる。
障碍者などを別にしても、例えば愚老は中卒で学歴もなければ世間に通用するスキル職能など何も持っていない無能の人である。
そんな人間が資産など蓄えられるわけもない。そんな甘い世の中ではない。
それなら死ぬまで働けという意見もあるだろう。
それには「嫌だよ」と笑って答えるしかない。
実はこの秋から食えなくなると思ってフェイスブックなどでさかんに食糧支援の広告を打っているのにはわけがある。
もう金輪際、勤労はやめたのである。
還暦を過ぎてから廃品回収、養老院の夜警、掃除夫、ゴミの分別などの仕事をやってきた。
去年はずっと便所掃除をしていた。
汲み取りの公衆便所のクソをブラシでこすっていると何故かかなしくなった。
まあそんなことがあって漸く前期高齢者になったのを機に勤労はやめることにした。
もう楽しいことしかしないと決めた。
だっていくら愚かでも奴隷の人生ではないのだから。
いつまでも苦役列車に乗っているつもりはない。
そうなればただ国の社会保障制度という再分配政策を利用すればいいだけの話である。
受給する年金とナショナルミニマムとの差額3~4万円を生活網で保障されるのである。
そのために勤労も納税もしてきた日本人のひとりなのである。
そういう当たり前の話が通じにくくなっている。
なぜか。生活が苦しい人々が、より下位にある貧困な人々に対するルサンチマン。歪である。
80年代以降のグローバリズムという経済がそういう国民を大量に生みだしたのである。
結句、世間は非寛容となった。ひとは弱い者には残酷になれる。

愚老は残りの寿命もあとわずかである。
持病の慢性腎炎も人工透析が目前に迫っている。
生活保護を利用すると医療は現物支給となる。これは助かる。
確か保護費の半分は医療費が占めている。
病院がタダだから羨ましい、などというバカがいる。
どこに病気になって喜ぶ人間がいるのか。本末転倒も甚だしい。
30年前には考えられなかったことだが、いまや貧困はほぼ固定化するのである。
階層移動は困難となった。老人の場合はまず脱出不可能である。
同時に家族がいれば貧困は連鎖し再生産される。
愚老は貧困層というレイヤーで長く暮らしてきたから血縁も悲惨である。
兄弟は病死したり餓死したり悲惨な死に方をした。
よくは知らないが子供の労働環境も恐らく悲惨であろう。
子供は3人いるが大学校へいった子はもちろんいない。貧乏だから当然である。
子供たちが幼児のころから家には帰らない火宅の人だったから扶養の実績もない。
そのうち母親と離婚したから親権を放棄し戸籍上も縁も切れた。
子を捨てたのである。
その子供たちのところへ市の福祉課から毎年扶養援助の通知がいく。
いまの政権で家族主義が復活していろいろとうるさくなった。
そんな縁のない生物学上の父親でも生活保護を利用すればそういうことになる。
それが発覚すれば子どもの婚姻の障壁ともなる。
相手の家族の反対にあって結婚できない。そういう価値観の持ち主ならば仕方がない。
どこまでも不憫である。
(このブログを匿名にしたのにはそういう訳がある)

この辺りがナマポ老人のリアルである。
少なくとも愚老にはどうだ羨ましいだろう、とは言えない。
言う人間がいればばいくらでも聞いてやる。

閑人舎通信
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2016.09.09 Fri l 社会・メディア l top ▲