私は、ドキュメンタリー作家の原一男氏の作品は、若い頃からよく見ていました。いちばん最初に見たのは、「極私的エロス 恋歌1974」でした。当時、私は高田馬場の予備校に通い浪人生活を送っていたのですが、一方で、アテネフランセの映画講座にも通っていて、たしかそこで見たように記憶しています。

しかし、ドキュメンタリー作家・原一男氏の名を知らしめたのは、なんといっても「ゆきゆきて、進軍」(1987年)でしょう。それは、私にとっても衝撃的な作品でした。奥崎謙三のことは、『ヤマザキ、天皇を撃て!』を読んで以来、ずっと興味をもっていましたが、あらためて映像化されたものを見ると、その強烈な個性と奇矯なふるまいに、文字通りド肝をぬかれたのでした。ただ、その奇矯なふるまいによって、大岡昇平が『野火』で書いているような、ニューギニア戦線の極限状況下における部隊内の処刑とカニバリズムの真相があぶり出されていくのでした。同時に、奥崎謙三が、カメラの前では「演じる人」でもあったということがわかり、それも驚きでした。

そのあとに見たのは、ガンに斃れた作家・井上光晴氏の日常にカメラを据えた「全身小説家」(1994年)です。「全身小説家」も、衝撃的なドキュメンタリーで、「嘘付きみっちゃん」の面目躍如たるような経歴の嘘が、カメラの前でつぎつぎとあきらかにされるのでした。

ところが先日、その原一男氏のブログを見ていたら、つぎのような記事がアップされていて、文字通り目が点になりました。

原一男の日々是好日
週刊金曜日「鹿砦社広告問題」に触れて(2016年9月8日)

私は、正直、大丈夫か?と思いました。

『週刊金曜日』(8月19日号)で、「さようならSEALDs」という特集が組まれたのですが、そのメイン企画が原一男氏とSEALDsの奥田愛基の対談だったそうです。しかも、特集号には二人の写真が表紙を飾ったのだとか。

ところが、その裏表紙に、私もこのブログで紹介した『ヘイトと暴力の連鎖 反原連・SEALDs・しばき隊・カウンター』(鹿砦社)の広告が掲載されていたらしく、どうやらそれがお気に召さなかったようなのです。

原氏はこう書きます。

それにしても、何故、こういう問題が起きたのか? 悪意ある誰かの意図があったのかどうか?


そこで、「まずは事実経過をハッキリ確かめよう」と担当の編集部員に連絡したのだとか。

一体なにが問題だというのでしょうか。言論、表現、出版の自由を持ち出すまでもなく、誰が見ても問題なんてないでしょう。むしろ、問題にするほうが問題とさえ言えるのです。

 一見、週刊金曜日内部の問題かのように見える。が、そうだろうか?
ひとりの編集部員が誇りと意地をかけて汲み上げた記事を、同志であるべき同じ編集部の長である人が、本来、支持し守るべきところを、あろうことか泥をぶっかけたに等しい。メッセージに込めた祈りを汚したのだ。70年代、このような人たちを“内部の敵”と呼んでいた。今や、この“内部の敵”という魑魅魍魎が跋扈していることに気付くべきなのだ。その魑魅魍魎たちがニッポン国の至るところに巣くっていることに。


この被害妄想。「悪意のある意図」「内部の敵」などという常套句。私は身の毛がよだつものを覚えました。まるでスターリニズムの悪夢がよみがえるようでした。

SEALDsを担いだ「ジジババども」(辺見庸)にとって、今やSEALDsはスターリンのような“絶対的な存在”になっているのでしょうか。SEALDsに異を唱える者は、まるで民主主義の敵、人民の敵とでも言わんばかりです。奥崎謙三が告発した”虚妄の戦後”を、原氏は、神聖にして犯すべからず至上の価値として崇め奉っているかのようです。

私は、SEALDsなんてなにも生み出さなかった、むしろ無定見な既成政党幻想や選挙幻想を煽った分、”罪”のほうが大きいと思っていますが、さしずめこんな私は、アベシンゾーと同様、人民の敵なのかもしれません。

言うまでもなく、全体主義は“右“の専売特許ではありません。“左“も例外ではないのてす。「憲法を守れ」とか「民主主義を守れ」と声高に主張しているからと言って、それが全体主義の免罪符になるわけではないのです。

他人(ひと)の口を借りてものを言うつもりはありませんが、私は、再び三度、辺見庸の(幻の)”SEALDs批判”を思い出さないわけにはいかないのでした。

だまっていればすっかりつけあがって、いったいどこの世界に、不当逮捕されたデモ参加者にたいし「帰れ!」コールをくりかえし浴びせ、警察に感謝するなどという反戦運動があるのだ?だまっていればいい気になりおって、いったいどこの世の中に、気にくわないデモ参加者の物理的排除を警察当局にお願いする反戦平和活動があるのだ。
よしんばかれらが××派だろうが○○派だろうが、過激派だろうが、警察に〈お願いです、かれらを逮捕してください!〉〈あの演説をやめさせてください!〉と泣きつく市民運動などあるものか。ちゃんと勉強してでなおしてこい。古今東西、警察と合体し、権力と親和的な真の反戦運動などあったためしはない。そのようなものはファシズム運動というのだ。傘をさすとしずくがかかってひとに迷惑かけるから雨合羽で、という「おもいやり」のいったいどこがミンシュテキなのだ。ああ、胸くそがわるい。絶対安全圏で「花は咲く」でもうたっておれ。国会前のアホどもよ、ファシズムの変種よ、新種のファシストどもよ、安倍晋三閣下がとてもとてもよろこんでおられるぞ。下痢がおかげさまでなおりました、とさ。コール「民主主義ってなんだあ?」レスポンス「これだあ、ファシズムだあ!」。

かつて、ぜったいにやるべきときにはなにもやらずに、いまごろになってノコノコ街頭にでてきて、お子ちゃまを神輿にのせてかついではしゃぎまくるジジババども、この期におよんで「勝った」だと!?おまえらのようなオポチュニストが1920、30年代にはいくらでもいた。犬の糞のようにそこらじゅうにいて、右だか左だかスパイだか、おのれじしんもなんだかわからなくなって、けっきょく、戦争を賛美したのだ。国会前のアホどもよ、安倍晋三閣下がしごくご満悦だぞ。Happy birthday to me! クソッタレ!

(辺見庸「日録1」2015/09/27)

※Blog「みずき」より転載
http://mizukith.blog91.fc2.com/



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