乳がんで闘病生活を送っている小林麻央が連日、病床から更新しているブログが話題になっています。おとといのブログでは、痛みなどを緩和するためにQOLの手術を受けたことや、がんの進行度が末期のステージ4であることを告白していました。

彼女が今置かれている状況を考えると、こうやってブログを更新していること自体、“驚き”としか言いようがありません。もし自分だったらと考えると、とても信じられないことです。

小林麻央は先月ブログを再開した際、「なりたい自分になる」と題して、がんと闘う決意を表明していました。自分の病状を公表するのは、その決意の表れなのでしょう。

吉本隆明は、言葉について、「自己表出」と「指示表出」という分け方をしています。「自己表出」というのは、自分に向けられる言葉で、「指示表出」というのは、他者とのコミュニケーションに使われる言葉です。吉本隆明は、これを一本の木に例えて、幹と根が自分に向けられる言葉(=沈黙)であり、枝や葉や実に当たるのがコミュニケーションに使われる言葉だと言ってました。そして、言葉の本質は、「沈黙」であると言うのです。

自分のことを考えてみても、自分に向ける言葉(沈黙)に“本音”があることは容易にわかります。他者に向けると、言葉に別の要素が入ってきて、“建前”とは言わないまでも、“本音”とは少し違ったものになるのです。

西欧の言語学でも、従来、話し言葉(パロール)のほうが書き言葉(エクリチュール)より発話者の観念を正確に表現するという考え方が主流でした(現代思想は、そういった伝統的な二項対立の考えに異議を唱えたのですが)。

書き言葉だと、さまざまな文章表現の制約もあり、うまく自分の考えが表現できないというのも日ごろ感じることです。なにより、そこには既に「自己表出」を「指示表出」に変換(翻訳)する作業がおこなわれているのです。ブログでも同じです。読者を想定している限り、内外のさまざまな制約から逃れることはできないのです。

末期のがんを前にして、自分の最期の姿を書き残したいという思いもあるのかもしれません。だとしたら尚更、自分の思いを正確に書き記すことができないもどかしさを感じることはないのだろうかと思います。

また、末期がんというきわめてプライベートでセンシティブな事柄について、SNSという公の場で、詳細な病状が公表されたり、家族間でやり取りがおこなわれたりすることに、私は、どうしても違和感を覚えてならないのです。世間には、小林麻央のブログに勇気をもらったとか元気をもらったとか励まされたとかいった声がありますが、他人の不幸で勇気をもらったり元気をもらったり励まされたりするのは、むしろ「蜜の味」と紙一重の心根と言えるでしょう。

例えは悪いですが、禁煙やダイエットなどと同じように、あえて口外することで、それをみずからの(闘病の)モチベーションにしたいと考えているのかもしれませんが、結果的にメディアに格好のネタを提供することになっているのは事実です。芸能ニュースの反応がまったく気にならないと言ったらウソになるでしょう。まして芸能人のブログは、アフィリエイトと無縁ではあり得ないのです。況やアメブロにおいてをやです。

不謹慎と言われるかもしれませんが、私は、小林麻央のブログに、芸能人の”悲しい性(さが)”とともに”したたかさ”のようなものさえ感じてならないのです。
2016.10.04 Tue l 本・文芸 l top ▲