「愛国」ばやりです。どこを向いても「愛国」の声ばかりです。それは、ネットだけではありません。テレビや新聞など、既存のメディアにおいても然りです。今や「愛国」だけが唯一絶対的な価値であるかのようです。言うまでもなく、安倍政権が誕生してから、日本は「愛国」一色に染まっているのです。

しかし、現在(いま)、この国をおおっている「愛国」は、実に安っぽいそれでしかありません。自分たちに不都合なことは詭弁を弄して隠蔽する、まるでボロ隠しのような「愛国」です。無責任で卑怯な、「愛国」者にあるまじき「愛国」でしかありません。「愛国心は悪党たちの最後の逃げ場である」(サミュエル・ジョンソン)ということばを、今更ながらに思い出さざるをえないのです。

さしずめ石原慎太郎や稲田朋美に代表される「愛国」が、その安っぽさ、いかがわしさをよく表していると言えるでしょう。それは、みずからの延命のために、国民を見捨て、恥も外聞もなく昨日の敵に取り入った、かつての「愛国」者と瓜二つです。

私は、「愛国」を考えるとき、いつも石原吉郎の「望郷と海」を思い出します。そして、私たちにとって、「愛国」とはなんなのかということを考えさせられるのでした。

1949年2月、石原吉郎は、ロシア共和国刑法58条6項の「反ソ行為・諜報」の罪で起訴、重労働25年の判決を受けて、刑務所に収容されます。そして、シベリアの密林地帯にある収容所に移送され、森林伐採に従事させられます。しかし、重労働で衰弱が激しくなったため、労働を免除。1953年3月、スターリンの恩赦で帰国が許可され、同年12月舞鶴港に帰還するのでした。

石原吉郎もまた、「愛国」者から見捨てられたひとりでした。

海から海へぬける風を
陸軟風とよぶとき
それは約束であって
もはや言葉ではない
だが 樹をながれ
砂をわたるもののけはいが
汀に到って
憎悪の記憶をこえるなら
もはや風とよんでも
それはいいだろう。
盗賊のみが処理する空間を
一団となってかけぬける
しろくかがやく
あしうらのようなものを
望郷とよんでも
それはいいだろう
しろくかがやく
怒りのようなものを
望郷とよんでも
それはいいだろう
(陸軟風)

 海を見たい、と私は切実に思った。私には渡るべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、三千キロにわたる草原(ステップ)と凍土(ツンドラ)がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、海ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際(きわ)までであった。海をわたるには、なにより海を見なければならなかったのである。
 すべての距離は、それをこえる時間に換算される。しかし海と私をへだてる距離は、換算を禁じられた距離であった。それが禁じられたとき、海は水滴の集合から、石のような物質へ変貌した。海の変貌には、いうまでもなく私自身の変貌が対応している。
 私が海を恋うたのは、それが初めてではない。だが、一九四九年夏カラガンダの刑務所で、号泣に近い思慕を海にかけたとき、海は私にとって、実在する最後の空間であり、その空間が石に変貌したとき、私は石に変貌せざるをえなかったのである。
 だがそれはなによりも海であり、海であることでひたすら招きよせる陥没であった。その向こうの最初の岬よりも、その陥没の底を私は想った。海が始まり、そして終わるところで陸が始まるだろう。始まった陸は、ついに終わりを見ないであろう。陸が一度かぎりの陸でなければならなかったように、海は私にとって、一回かぎりの海であった。渡りおえてのち、さらに渡るはずのないものである。ただ一人も。それが日本海と名づけられた海である。ヤポンスコエ・モーレ(日本の海)。ロシアの地図にさえ、そう記された海である。
 望郷のあてどをうしなったとき、陸は一挙に遠のき、海のみがその行手に残った。海であることにおいて、それはほとんどひとつの倫理となったのである。
(石原吉郎『望郷と海』)


この痛苦に満ちたことばのなかにこそ、「愛国」とはなんなのかの回答があるのではないでしょうか。私たちは、「愛国」を考えるとき、無責任で卑怯な「愛国」者たちによって見捨てられた人々の声に、まず耳を傾けるべきなのです。


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