韓国では朴槿恵大統領の職務が停止させられ、“政治の空白”が生じていますが、その間隙を縫って、「従軍慰安婦」問題をめぐる日韓対立が先鋭化しています。
朴大統領の友人である崔順実の国政介入疑惑は、逮捕・訴追されたとは言え、まだ裁判中で刑が確定したわけではありません。それに、朴大統領の関与がどの程度であったのか、充分解明されているとは言えません。傍目から見れば、週刊誌のスキャンダルレベルの域を出てない気もします。にもかかわらず、国会では朴大統領に対する弾劾訴追案が圧倒的多数で可決され、朴槿惠大統領は、実質的に国家元首としての権限を失ったのでした。
このヒステリックな手のひら返しは、如何にも韓国らしいなと思います。今までの大統領経験者も、世論の手のひら返しによって、似たような末路を辿っていますが、それは、韓国の政党政治の未熟さだけでなく、韓国社会の特異性や韓国人の気質も、多分に関係しているように思えてなりません。
そもそも独裁者・朴正煕の娘を大統領に選んだのは、韓国の国民なのです。朴正煕は、日本の陸軍士官学校を卒業して、陸軍中尉(日本名・岡本中尉)まで務め、解放後、軍事クーデーターで権力を掌握すると、岸信介ら自民党の保守政治家と通じ、請求権の放棄の見返りで得た経済協力を元手に、日韓の利権を築いた典型的な「親日派」です。
折しも、アクセスジャーナルでは、年明けから「安倍晋三首相自宅放火事件の闇」なる連載がはじまっていますが、アベシンゾーの下関の実家が地元では「パチンコ御殿」とヤユされるように、アベ家が韓国系パチンコ業者と浅からぬ関係があるのはよく知られた話です。アベのダブルスタンダードは、(ややオーバーなもの言いをすれば)朴正煕のダブルスタンダードとパラレルな関係にあるのです。
独裁者の娘(しかも、「親日派」の娘)を選んだ責任はどこ吹く風、今度は一転して口をきわめて罵っている韓国世論。まるでアイドルグループのコンサートのように、お揃いのジャンパーを着て、お揃いのプラカードを掲げ、いっせいにシュプレヒコールを上げる弾劾集会を見るにつけ、(日本のリベラル派の間では、民主主義の発露だと称賛する声が多いようですが)私は気持の悪さしか覚えません。あれじゃなにも変わらないだろうなと思います。
問題となっている少女像にしても然りです。あの無垢な少女像は、「従軍慰安婦」のイメージをあまりにもデフォルメしすぎていると言ざるを得ません。無垢な少女のイメージによって隠蔽されているのは、朴裕河が『帝国の慰安婦』で書いているような、慰安婦たちを直接集め管理し搾取した朝鮮人業者たちの存在です。そうやって「不純物を取り出して純粋培養された、片方だけの『慰安婦物語』」(『帝国の慰安婦』)が作られているのです。
朴裕河が言うように、朝鮮人慰安婦が中国人やオランダ人などほかの慰安婦と異なるのは、その大半が「管理売春」であったという事実でしょう。だからと言って、それが「自発」か「強制」かなんて関係ありません。日本軍が「慰安所」の設置を指示し、それを積極的に利用したのはまぎれもない事実です。「従軍慰安婦」が日本帝国主義による戦争犯罪であるのは、もはや議論の余地もないほどあきらかで、それは世界の常識ですらあります。だから、少女像の問題が取り上げられるたびに、細かい議論は隅に置かれ、日本が犯した蛮行のみが世界の人々に知られることになるのです。その意味では、あの少女像は、プロパガンダの装置としては効果絶大と言えるでしょう。
日本の国粋主義者たちが否定すればするほど、日本の戦争犯罪が流布される矛盾(パラドックス)。「愛国」を叫べば叫ぶほど、日本の”恥の歴史”が世界に拡散される泥沼。それは、ひとえに日本人がみずからの戦争責任を明らかにしなかったからです。ドイツのように、みずからの手で戦争犯罪を裁くことがなく、戦勝国による極東軍事裁判以外はすべて頬被りして曖昧にしたからです。それどころか、岸信介のように、占領国に協力することで、戦争犯罪者が権力の座に復帰さえしているのです。そのため、今だに中国や韓国から戦争責任を問われ、謝罪を要求されることになるのです。そして、日本人は、いつまで謝罪しなければならないのだと苛立つのです。そんな苛立ちも、中国や韓国から見れば、お門違いにしか見えないでしょう。
「従軍慰安婦」の問題の本質は、慰安婦の悲劇をどう受け止めるかでしょう。戦時性暴力ではないという日本の「愛国」者の主張は、とうてい世界に受け入れられるものではないでしょう。慰安婦の存在は戦争、それも植民地支配がもたらした悲劇であり、個々の元慰安婦たちは、女性として筆舌に尽くしがたい悲劇を強いられたのです。私たちは、それから目をそらすことはできないのです。
韓国の次期政権を見据え(あるいはトランプ政権誕生を見据え)、政治的な鞘当てがおこなわれていると見る向きもありますが、私たちは、そんな政治的な思惑に惑わされることなく、慰安婦の根底にある問題を見過ごしてはならないのです。「愛国」か「反日」か、「嫌韓」か「親韓」かなんてどうだっていいのです。それこそ日本人の常識が問われているのだと思います。
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『帝国の慰安婦』と日韓合意
朴大統領の友人である崔順実の国政介入疑惑は、逮捕・訴追されたとは言え、まだ裁判中で刑が確定したわけではありません。それに、朴大統領の関与がどの程度であったのか、充分解明されているとは言えません。傍目から見れば、週刊誌のスキャンダルレベルの域を出てない気もします。にもかかわらず、国会では朴大統領に対する弾劾訴追案が圧倒的多数で可決され、朴槿惠大統領は、実質的に国家元首としての権限を失ったのでした。
このヒステリックな手のひら返しは、如何にも韓国らしいなと思います。今までの大統領経験者も、世論の手のひら返しによって、似たような末路を辿っていますが、それは、韓国の政党政治の未熟さだけでなく、韓国社会の特異性や韓国人の気質も、多分に関係しているように思えてなりません。
そもそも独裁者・朴正煕の娘を大統領に選んだのは、韓国の国民なのです。朴正煕は、日本の陸軍士官学校を卒業して、陸軍中尉(日本名・岡本中尉)まで務め、解放後、軍事クーデーターで権力を掌握すると、岸信介ら自民党の保守政治家と通じ、請求権の放棄の見返りで得た経済協力を元手に、日韓の利権を築いた典型的な「親日派」です。
折しも、アクセスジャーナルでは、年明けから「安倍晋三首相自宅放火事件の闇」なる連載がはじまっていますが、アベシンゾーの下関の実家が地元では「パチンコ御殿」とヤユされるように、アベ家が韓国系パチンコ業者と浅からぬ関係があるのはよく知られた話です。アベのダブルスタンダードは、(ややオーバーなもの言いをすれば)朴正煕のダブルスタンダードとパラレルな関係にあるのです。
独裁者の娘(しかも、「親日派」の娘)を選んだ責任はどこ吹く風、今度は一転して口をきわめて罵っている韓国世論。まるでアイドルグループのコンサートのように、お揃いのジャンパーを着て、お揃いのプラカードを掲げ、いっせいにシュプレヒコールを上げる弾劾集会を見るにつけ、(日本のリベラル派の間では、民主主義の発露だと称賛する声が多いようですが)私は気持の悪さしか覚えません。あれじゃなにも変わらないだろうなと思います。
問題となっている少女像にしても然りです。あの無垢な少女像は、「従軍慰安婦」のイメージをあまりにもデフォルメしすぎていると言ざるを得ません。無垢な少女のイメージによって隠蔽されているのは、朴裕河が『帝国の慰安婦』で書いているような、慰安婦たちを直接集め管理し搾取した朝鮮人業者たちの存在です。そうやって「不純物を取り出して純粋培養された、片方だけの『慰安婦物語』」(『帝国の慰安婦』)が作られているのです。
朴裕河が言うように、朝鮮人慰安婦が中国人やオランダ人などほかの慰安婦と異なるのは、その大半が「管理売春」であったという事実でしょう。だからと言って、それが「自発」か「強制」かなんて関係ありません。日本軍が「慰安所」の設置を指示し、それを積極的に利用したのはまぎれもない事実です。「従軍慰安婦」が日本帝国主義による戦争犯罪であるのは、もはや議論の余地もないほどあきらかで、それは世界の常識ですらあります。だから、少女像の問題が取り上げられるたびに、細かい議論は隅に置かれ、日本が犯した蛮行のみが世界の人々に知られることになるのです。その意味では、あの少女像は、プロパガンダの装置としては効果絶大と言えるでしょう。
日本の国粋主義者たちが否定すればするほど、日本の戦争犯罪が流布される矛盾(パラドックス)。「愛国」を叫べば叫ぶほど、日本の”恥の歴史”が世界に拡散される泥沼。それは、ひとえに日本人がみずからの戦争責任を明らかにしなかったからです。ドイツのように、みずからの手で戦争犯罪を裁くことがなく、戦勝国による極東軍事裁判以外はすべて頬被りして曖昧にしたからです。それどころか、岸信介のように、占領国に協力することで、戦争犯罪者が権力の座に復帰さえしているのです。そのため、今だに中国や韓国から戦争責任を問われ、謝罪を要求されることになるのです。そして、日本人は、いつまで謝罪しなければならないのだと苛立つのです。そんな苛立ちも、中国や韓国から見れば、お門違いにしか見えないでしょう。
「従軍慰安婦」の問題の本質は、慰安婦の悲劇をどう受け止めるかでしょう。戦時性暴力ではないという日本の「愛国」者の主張は、とうてい世界に受け入れられるものではないでしょう。慰安婦の存在は戦争、それも植民地支配がもたらした悲劇であり、個々の元慰安婦たちは、女性として筆舌に尽くしがたい悲劇を強いられたのです。私たちは、それから目をそらすことはできないのです。
韓国の次期政権を見据え(あるいはトランプ政権誕生を見据え)、政治的な鞘当てがおこなわれていると見る向きもありますが、私たちは、そんな政治的な思惑に惑わされることなく、慰安婦の根底にある問題を見過ごしてはならないのです。「愛国」か「反日」か、「嫌韓」か「親韓」かなんてどうだっていいのです。それこそ日本人の常識が問われているのだと思います。
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