夜の谷を行く


桐野夏生の最新作『夜の谷を行く』(文藝春秋社)を読みました。

連合赤軍事件から40年。

主人公の西田啓子は、当時24歳で、「都内の山の手にある私立小学校の教師を一年務めてから、革命左派の活動に入ったという、異色の経歴」のメンバーです。山岳ベースに入った「革命左派の兵士の中では、最も活動歴が浅く、無名の存在」でした。

米軍基地に侵入しダイナマイトを仕掛けた勇気を買われ、永田洋子に可愛がられていました。しかし、山岳ベースでは、「総括」という名のリンチ殺人がエスカレートして凄惨を極め、兵士たちは疲弊していました。そんななかで、彼女は同じ下級兵士であった君塚佐紀子と二人でベースを脱走し、麓のバス停で警察に逮捕されるのでした。

他のメンバーと決別して「分離公判」を選択した彼女は、5年9カ月服役したあと、中央線の駅前のビルで学習塾を経営していましたが、それも5年前に閉じ、63歳になる今は、昭和の面影が残る古いアパートで、貯金と年金でつつましやかに暮らしています。「とにかく目立たないように静かに生きる」と決意して今日まで生きてきたのでした。逮捕によって親類とは疎遠になり、現在、行き来しているのは、実の妹とその娘だけでした。

しかし、2011年2月、そんな日常をうち破るように、永田洋子が獄死したというニュースが流れます。西田啓子は、永田の死に対して、「永田が二月のこの時期に亡くなるとは、死んだ同志が呼んだとしか思えない」と衝撃を受けます。

啓子は、あの年の二月に何があったか、よく覚えていた。四日には、吉野雅邦の子を妊娠していた金子みちよが亡くなった。大雪の日だった。そしてその日に、永田と森が上京したのだ。六日、自分が脱走する。


 あれは、金子みちよが亡くなった夜のことだった。雪が積もって凍り、キラキラと月に光る稜線を眺め上げていると、横に君塚佐紀子が立った。
 保育士だった佐紀子も、活動歴の浅さや地味な性格では、啓子と同程度だった。二人とも、ベースでは、森や永田、坂口ら指導部の連中など遠くて見えないような末席に座らせられていた。個室に炬燵、暖かな布団で寝られるのは指導部だけで、下級兵士は、板敷きに寝袋で雑魚寝である。
「凍えるね」
 啓子が呟くと、佐紀子が「うん」と頷いて啓子の方を見遣った。目が合った。目には何の色もなく、互いに互いの虚ろを確認しただけだった。
 その日、永田と森が資金調達に山を下りたのを契機に、二人とも何も言わずに荷物を纏めた。


永田洋子の死と前後して、昔のメンバーから電話がかかってきます。そして、かつて同志として結婚していた元夫とも再会することになります。元夫は、出所後、社会の底辺で生きて、今はアパートを追い出されホームレス寸前の生活をしていました。新宿で待ち合わせ、中村屋でカレーライスを食べているとき、突然、激しい揺れに襲われます。東日本大震災が発生したのでした。そして、啓子の生活も封印していた過去によって、激しく揺さぶられることになるのでした。

小説だから仕方ないでしょうが、連合赤軍事件については、薄っぺらな捉え方しかなく、興ざめする部分はあります。もっとも、当時のメンバーたちにしても、あるいはその周辺にいた人間たちにしても、事件について、真実をあきらかにし、ホントに総括しているとは言い難いのです。現実も小説と同じなのです。

啓子が、君塚佐紀子と再会したとき、つぎのように呟くシーンがあります。君塚佐紀子は、出所後、親兄弟と縁を切り、名前も変えて、今は神奈川県の三浦半島の農家に嫁いでいるのでした。

「(略)永田も坂口もみんな、死んだ森のせいにしている。でも、あたしたちだって、永田と森のせいにしているじゃない」


クアラルンプール事件での釈放要求を断り、みずから死刑囚としての道を選んだ坂口弘は、もっとも誠実に事件と向き合っているイメージがありますが、しかし、彼の著書を読むと、やはり「死んだ森のせいにしている」ような気がしてなりません。あさま山荘の銃撃戦には、リンチ殺人に対する贖罪意識があった、彼らなりの「総括」だったという見方がありますが、ホントにそうだったのか。

もとより私たちが知りたいのは、つぎのような場面における個的な感情です。そこにあるむごたらしいほどの哀切な思いです。そこからしか連赤事件を総括することはできないのではないか。私が、この小説でいちばんリアリティを覚えたのも、この場面でした。

「西田さん」
もう一度、金子がはっきりと呼んだ。
啓子は外の様子を窺ってから、金子の横に行って、顔を覗き込んだ。
「どうしたの」
金子は腫れ上がった目を開けて、じっと啓子を見上げた。「反抗的な目をしている。反省していない」と森や永田を怒らせた眼差しだった。
「こんな目に遭っても赤ん坊が動いているのよ。凄いね」
金子は小さな声で呟くように言った。笑ったようだったが、顔が腫れていて、表情はよくわからなかった。
啓子は胸がいっぱいになり、励まそうとした。
「頑張らなきゃ駄目よ」
少し経ってから、金子が聞いた。
「頑張ってどうするの?」
「赤ちゃん、産むんでしょう」
金子が微かな溜息を吐く。
「そんな体力は残ってないかもしれない」
「でも、頑張りなさいよ」
「ねえ、頼みがあるんだけど」
金子が低い声で囁いた。
「何?」
多分、金子の頼みを叶えることはできないだろう、と啓子は思いながら、聞き返した。
「子供だけでも助けて。西田さんも妊娠しているからわかるでしょう。この子を助けて、革命戦士にして」
「わかった」
啓子はそう言って、素早く金子のもとを離れた。テントの外に足音がしたからだ。


もちろん、『夜の谷を行く』はエンターテインメント小説ですので、最後に”どんでん返し”のサービスが待っているのですが、その“どんでん返し“もこの場面と対比すると、蛇足のように思えました。


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2017.05.16 Tue l 本・文芸 l top ▲