誰がアパレルを殺すのか


「衣料品不況」と言われるほど、衣料品が売れてないのだそうです。

『誰がアパレルを殺すのか』(杉原淳一/染原睦美・日経BP社)によれば、「1991年を100とした場合の購入単価指数は、2014年度には60程度まで落ち込んでいる」のだとか。また、「総務省の家計調査によると、1世帯当たりの『被服・履物』への年間支出額は2000年と比べて3割以上、減少した」そうです。

本書では、その要因として、つぎのような”内輪の論理”=「負のサプライチェーン」を上げていました。

 中国で大量に作り、スケールメリットによって単価を下げる。代わりに大量の商品を百貨店や駅ビル、SCやアウトレットモールなど、様々な場所に供給することで何とか商売を成り立たせる。需要に関係なく、単価を下げるためだけに大量生産し、売り場に商品をばらまくビジネスモデルは、極めて非合理的だが、麻薬のように、一度手を染めると簡単にはやめられないものだった。ムダを承知で大量の商品を供給しさえすれば、目先の売り上げが作れるからだ。


その結果、ブランド名が違うだけで、似たようなデザインの似たような商品が店頭にあふれるようになったのです。ブランド名も、デパートなどとの取引上の都合のために、メーカーが空手形のように節操もなく生み出したものだとか。

しかし、私は、衣料品が売れなくなったのは、そういった業界の怠慢だけにあるのではないように思います。“内輪の論理”も、二義的な要因にすぎないように思います。もっと本質的な要因があるのではないか。デフレで服の原価を消費者が知ってしまったからなどというのも、表層的な要因のようにしか思えません。

私は、本書のなかでは、「メチャカリ」を運営するストライプインターナショナルの石川康晴社長の「アパレル不況の要因の一つは、洋服が生む高揚感が減っていることにある」ということばに、アパレル不況の本質が示されているように思いました。

既出ですが、吉本隆明は、埴谷雄高との間で交わされた「コムデギャルソン論争」のなかで、『アンアン』を読み、ブランドの服を着ることにあこがれる《先進資本主義国の中級または下級の女子賃労働者たち》が招来しているものは、「理念神話の解体」であり「意識と生活の視えざる革命の進行」である、とブランドの服にあこがれる若い女性たちを肯定的にとらえたのですが、あれから30年が経ち、今の若者たちは、もはやブランドの服を着ることにさえ高揚感を持てなくなったということなのかもしれません。

本書で紹介されていた「アパレル産業の未来」なるものも、とても「未来」があるようには思えませんでした。アパレル業界お得意の「ネット通販」がありきたりな発想にすぎないように、手作りの「別注商品」も、ユーズド商品を扱う「シェアリングエコノミー」も、私には気休めにしか思えませんでした。

モードの時代は終わったのです。資本主義は常に過剰生産恐慌の危機を内包しており、そのためにさまざまなマジックを使って購買意欲を煽るのですが、アパレルの世界ではそのマジックが効かなくなったということなのでしょう。中野香織氏が言う「倫理の物語」の消費もその表れでしょう。

要するに、おしゃれをする”意味”がなくなったのです。おしゃれをすることが”意味”のあることではなくなったのです。それは、街を歩けば一目瞭然でしょう。おしゃれをして街を闊歩する高揚感なんて、もはやどこにもないのです。

「アパレルを殺す」のは、業界の”内輪の論理”などではなく、時代の流れと言うべきでしょう。コモディティ化もそうですが、アパレルという文化的な最先端の商品に(最先端の商品であるからこそ)、先進資本主義の”宿阿”が端的に表れているということではないでしょうか。


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