渡部直己氏のセクハラ問題は、とうとう新聞各紙が報道するまでに至っています。

最初に渡部氏のセクハラを取り上げたのは、ビジネス誌などを出版するプレジデント社の「プレジデントオンライン」で、既に関連記事も含めて3本の記事をアップしています。

PREDIDENT Online
早大名物教授「過度な求愛」セクハラ疑惑
早大セクハラ疑惑「現役女性教員」の告白
早大セクハラ疑惑"口止め教員"の怠慢授業

1984年に出た渡部氏の『現代口語狂室』(河出書房新社)のなかに、四方田犬彦氏のつぎのような発言がありました。

四方田 「女子大生と記号学には手を出すな」ってタブーがあるの知っている? 日本のアカデミズムにさ。
渡部 知らない(笑)
(われらこそ「制度」である)


今になれば、皮肉のように読めなくもありません。もしかしたら、当時から渡部氏の”性癖”が懸念されていたのかもしれません。

渡部氏のセクハラについて、周辺では「別に驚くことではない」という声が多いそうです。栗原裕一郎氏によれば、女性ライターの間では「超有名」だったそうです。女性記者の間で「超有名」だったどこかの国の財務官僚とよく似ています。

もっとも、1984年当時は、渡部氏もアカデミズムの住人ではありませんでした。高田馬場にあった日本ジャーナリスト専門学校(通称「ジャナ専」)の講師にすぎませんでした。ただ、今回のセクハラの発覚に対して、当時「ジャナ専」に通っていた人間たちからも(もう相当な年のはずですが)、「ざまあみろ」という声が上がっているようです。やはり、当時からそのような風評は流れていたのかもしれません。

プレジデント社との兼ね合いで言えば、『現代口語狂室』のなかで、渡部氏は、『プレジデント』誌の表紙について、つぎのような辛辣な文章を書いています。同誌の表紙は、当時は今と違って、写真と見まごうようなリアルな人物の顔が描かれていたのです。モデルは、もちろん、功成り名を遂げた財界人や歴史上の英雄でした。

(略)『プレジデント』という誌名からしてすでに厚顔に勝ち誇った雑誌の、比類なく扇情的な表紙を視つめることは不可能なのだが、実寸大で掲げてしまえばたちどころに首肯されうるように、中川恵司なる人物が毎号面妖のかぎりをつくして制作するこの表紙は、もはや雑誌の顔などというものではない。それはまさに、「プレジデント」たちのむきだしの下腹部と称する他ない、非凡なまでに醜悪な突起物として、書店の棚に、文字通り身ヲ立テ名ヲ遂ゲヤヨ励ミつつ、にわかに信じられぬほどの異彩を放っているのである。
(『プレジデント』あるいは勝者の愚鈍なる陽根)


まさか30数年後の意趣返しではないでしょうが、どこか因縁めいたものを感じてなりません。

渡部氏の父親は統幕会議議長という自衛隊の大幹部だったのですが、この文章を読むと、もしかしたらその成育過程で、渡部氏のなかに男根至上主義的な刷り込みがあったのかもしれないと思ったりもします。三つ子の魂百までというのは、文学を持ち出すまでもなく、人間存在の真実なのです。

渡部氏は、絓秀実氏との共著『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』(太田出版)で、自分は絓氏に感化されて「新左翼」になったというような、冗談ともつかないようなことを話していました。その後、絓氏の引きがあったのかどうか、めでたく近畿大学文学部教授としてアカデミズムの一員になることができたのです。さらに、それを足がかりに、早稲田大学教授の地位まで手に入れたのでした。

それにしても、とんだ「新左翼」がいたものです。”SEALDsラブ”の老人たちと同じような「新左翼」のなれの果てと言うべきかもしれません。(以後、墓場から掘り出した死語を使って「新左翼」風に‥‥)指導教官あるいは『早稲田文学』の実質的な「発行人」という特権的地位を笠に、人民(女子学生)をみずからの性的欲望のはけ口に利用するのは、マルクス・レーニン主義に悖る反革命行為と言うほかありません。ブルショア国家の公的年金がもらえる年になったからといって、これ幸いに辞職するなどという反階級的な敵前逃亡を断じて許してはならないのであります。人民の名において革命的鉄槌が下されなければなりません。

「おれの女になれ」なんて、どこかで聞いたような台詞です。エロオヤジ的、あまりにエロオヤジ的な台詞です。しかも、渡部氏は、プレジデントオンラインの取材に対して、つぎのように文学的レトリックを使って弁解しているのでした。

「(略)過度な愛着の証明をしたと思います。私はつい、その才能を感じると、目の前にいるのが学生であること忘れてしまう、ということだと思います」


田山花袋でもなったつもりか、と思わずツッコミを入れたくなりました。

「電通文学」というのは、渡部氏の秀逸な造語ですが、渡部氏自身が電通の向こうを張るセクハラオヤジだったのですから、これほどのアイロニーはないでしょう。もっとも、『早稲田文学』も、今や「電通文学」の牙城のようになっているのです。

被害者女性が相談に行ったら逆に口止めされた「教員」が誰なのか、『早稲田文学』の購読者や「王様のブランチ」の視聴者なら簡単に解ける問題でしょう。

今回のセクハラ問題であきからになったのは、渡部氏がいつの間にか文壇村の”小ボス”に鎮座ましまして、早稲田の現代文芸コース(カルチャーセンターかよ)や『早稲田文学』を根城に、文壇政治を司る”権力者”に成り下がっていたということです。若い頃、渡部氏の本を読んで、目からウロコが落ちる思いがした人間にとっては、反吐が出るような話です。

この問題については、私が知る限り、作家の津原泰水氏のツイッター上の発言がいちばん正鵠を射ているように思いました。

津原泰水 (@tsuharayasumi) | Twitter
https://twitter.com/tsuharayasumi








2018.06.29 Fri l 本・文芸 l top ▲