今朝、テレビを観ていたら、「麻原彰晃死刑囚の死刑執行」「ほかの数人も執行見込み」という「ニュース速報」が流れたのでびっくりしました。

執行前に「ニュース速報」が流れるなんて前代未聞です。死刑執行が事前にメディアにリークされたのでしょう。まるで死刑が見世物にされたようで、オウムだったらなんでも許されるのかと思いました。

それからほどなく、つぎつぎと残り6名の執行を告げるテロップが流れたのでした。それは、異様な光景でした。一度に7名の人間が”処刑”されるなんて、先進国ではあり得ない話です。

死刑を報じるメディアの論調も、「当然」というニュアンスで溢れていました。被害者の家族だけでなく、長年オウムを取材してきたジャーナリストも、ニュースを解説する識者も、街頭インタビューに答える市民も、みんな一様に「当然」という口調でした。どんな事情であれ、人の命が奪われることを「当然」と考える感覚に、私は違和感を覚えざるをえませんでした。オウム真理教も、タントラ・ヴァジラヤーナという教義では、人の命を奪うことを「ポア」と称して救済=「当然」と考えていたのです。

今日の死刑執行に対して、EU駐日代表部は、EU加盟国、アイスランド、ノルウェー、スイスの各駐日大使とともに、日本政府に執行停止の導入を訴える共同声明を発表したそうです。


声明では、「死刑は残忍で冷酷であり、犯罪抑止効果がない。さらに、どの司法制度でも避けられない、過誤は、極刑の場合は不可逆である」と主張しています。でも、このニュースはほとんど報じられることはありませんでした。

今日の執行には、平成の間に事件の処理を終わらせたいという法務省の意向があると言われています。ニュースを解説する識者の、これでひとつの区切りが付いたというような発言も、それに符合するものでしょう。オウムの死刑囚は13名ですから、あとの6名も、平成の間に執行されるのは間違いないでしょう。「恩赦」や「再審請求」を封じるためという見方もありますが、そうやって人の死を政治的意図で操作する発想にも、違和感を抱かざるを得ません。

宮台真司氏が朝日新聞のインタビューで言っているように、オウムはすぐれて今日的な問題なのです。”オウム的なもの”はますます社会の隅々まで浸透しているのです。決して他人事ではないのです。オウムが私たちに突き付けた問題は、何ひとつ解決してないのです。オウムの事件に区切りを付け、歴史の片隅に追いやろうとする考えこそ反動的と言えるでしょう。


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2018.07.06 Fri l 社会・メディア l top ▲