今朝、オウム真理教の残り6名の死刑囚に対して、死刑が執行されたというニュースがありました。これで、ひと月の間に13名の刑が執行されたことになります。まさに前代未聞の出来事です。

否応なく暗い気持にならざるを得ません。人の命が奪われるというのは、犯罪であれ刑罰であれ、殺人であることには変わりがないのです。辺見庸ではないですが、むごいなと思います。信者たちに殺された人間たちも、処刑された信者たちも、みんなむごいなと思います。

私たちは、オウムを前にすると、恐怖と憎しみの感情に支配され、鬼畜を見るような目になるのですが、処刑された信者たちはホントに鬼畜だったのか。

地下鉄サリン事件で娘を殺された遺族は、「これで仇を取ることができました」と言っていたそうですが、一方で、どうしてあんな事件を起こしたのか、そして、今、どう思っているのか、加害者たちの生の声を聞くことが供養になるという考えがあってもおかしくないのです。たしかに、因果応報という仏教の考え方もありますし、江戸時代は仇討ちや切腹の風習もありましたが、しかし、みずからの死を持って罪を償わせるという考えは、本来日本人が持っている死生観や道徳観と必ずしも合致するものではないはずです。

先進国で死刑制度が存続しているのは、今や日本とアメリカくらいですが、死刑を廃止(もしくは停止)している国から、人権後進国の報復主義に基づいた「大量処刑」と見られても仕方ないでしょう。

今回の「大量処刑」は、オウム真理教がそれだけ国家からの憎悪を一身に浴びていたと言えるのかもしれません。かつては社会主義者や無政府主義者が憎悪の対象でしたが、平成の世にあっては、カルト宗教がそれにとって代わったのです。麻原の国選弁護人を務めた安田好弘弁護士は、今回の処刑でオウム真理教事件が“平成の大逆事件”になったと言ってましたが、決してオーバーではないでしょう。

今回の処刑で、麻原彰晃をグル(尊師)と崇め、タントラ・ ヴァジラヤーナを信奉する残存信者にとって、麻原をはじめ死刑囚たちが益々”ヒーロー”になるに違いありません。遺骨がどうのという問題ではないのです。国家から憎悪を浴びせられれば浴びせられるほど、彼らもまた国家に対して憎悪の念を募らせ、死刑囚たちを”ヒーロー”と崇めるのです。

事件の当事者たちの生の声を封印したまま刑を執行したことで、事件をより不可解なものにし、逆にカルトを増殖させる土壌を残したと言えるでしょう。前も書きましたが、「偽史運動」こそがカルトがカルトたる所以です。宗教学者の島田裕巳氏は、麻原の死刑によって、麻原の魂は信者たちの中で「転生」して生き続けることになるだろうと言ってましたが、これから事件や死刑囚たちを神格化する「偽史運動」が始まることでしょう。

平成の大事件だから平成の間にカタをつけたいなどという(小)役人的発想が、カルト宗教の反国家的感情をエスカレートさせるのは間違いないでしょう。

一方、麻原ら7名の死刑が執行された前夜(7月5日)、死刑執行命令を出した上川陽子法相が、「自民党赤坂亭」に出席していたことが判明して物議を醸しています。「衝撃的」と書いていたメディアさえありました。上川法相は、執行後の記者会見で、「磨いて磨いてという心構え」で、「慎重にも慎重な検討を重ねた」上で、死刑執行命令を出したと言っていましたが、執行前夜に酔っぱらってはしゃいでいる様子はとてもそのようには見えません。「自民党赤坂亭」は西日本を襲った集中豪雨の当夜のことでもあったので、その点でも批判を浴びましたが、政治家や役人など権力を持つ人間たちの、人(国民)の命に対する軽さ・無神経さには愕然とします。と同時に、怖いなと思います。それは、オウムの教義にも通底するものと言えるでしょう。
2018.07.26 Thu l 社会・メディア l top ▲