先日、年上の知人と会ったら、なにやら深刻な表情でしきりに嘆いていました。会社を定年で辞めて、嘱託(という名のアルバイト)で別の会社に勤めているのですが、そこで社員とささいなことからトラブルになり、30歳年下の、文字通り息子ほど年の離れた若い社員から、「この野郎!」「お前は何が言いたいんだ!」と襟首を掴まれ怒鳴り付けられたのだそうです。

「若い人間から『お前』呼ばわりされ罵声を浴びせられたら凹むよ」と言ってました。だからと言って、まだ住宅ローンが残っているので、おいそれと辞めるわけにもいかず、毎日、憂鬱な気分で会社に通っていると言ってました。

彼は、一流大学を出た、博識で頭脳明晰な人物です。怒鳴り付けた社員など足元にも及ばないインテリです。しかし、こう言うと、「いつまでも過去の栄光にすがっている老人」みたいに見られて、「だから自尊心の強い年寄りは使いにくいんだ」と言われるのがオチでしょう。

私は、何と殺伐とした風景なんだろうと思いました。新自由主義的な考えがここまで個人の内面を蝕んでいるのかと思いました。経済合理性が、人間や人生を見る目にも影が落としているのです。敬老精神を持てなんて野暮なことを言うつもりはありませんが、そこには相手の立場を思いやる一片の想像力さえないのです。

私は、知人の話を聞きながら、昔観た「トウキョウソナタ」という映画のワンシーンを思い出しました。会社をリストラされた主人公が、再就職先を求めて面接に臨むのですが、若い面接官から「あなたは会社に何をしてくれますか?」「あなたは何ができますか?」と詰問された挙句、けんもほろろに追い返され、絶望的な気持にさせられるのでした。それは、新自由主義に染まりつつあるこの社会を暗示するような場面でした。

「トウキョウソナタ」についても、このブログで感想文を書いていますが、今、確認したら、前の記事の「歩いても 歩いても」と同じ2008年の日付になっていました。

何度も言いますが、「政治の幅は生活の幅より狭い」(埴谷雄高)のです。私達は、そんな日常にまつわる観念の中で生きているのです。私達の悩みの多くは、その観念に関連したものです。もとより、”生きる思想”というのがあるとしたら、息子ほど歳の離れた人間から怒鳴り付けられるのを歯を食いしばって耐えるような、そんな日常から生まれた言葉の中にしかないでしょう。


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2018.10.05 Fri l 日常・その他 l top ▲