
先日、朝日新聞で紹介されていた萩原慎一郎の歌集『滑走路』(KADOKAWA)を読みました。
歌集については、下記のような歌を挙げて、非正規の生きづらさを指摘する声があります。
ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼を食べる
今日も雑務で明日も雑務だろうけど朝になったら出かけてゆくよ
非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりしている
しかし、私は、やはり中高時代に遭遇したいじめが大きかったように思います。いじめは、そのあとも彼の心に暗い影を落とし、その後遺症に苦しむことになるのでした。多感な時期にいじめに遭うということは、どれほど残酷なものでしょうか。
以来、彼はずっと精神の不調を抱え苦しんでいたのです。歌を詠むようなナイーブな内面を持っているからこそ、よけいいじめが残酷なものになったことは容易に想像できます。
自死の誘惑に抗いながら、次のような歌を詠んでいたのです。
木琴のように会話が弾むとき「楽しいな」と率直に思う
靴ひもを結び直しているときに春の匂いが横を過ぎゆく
この二首は、私が歌集の中で好きな歌です。しかし、こういった日常をもっても、彼は死の誘惑に抗うことはできなかったのでした。
癒えることなきその傷が癒えるまで癒えるその日を信じて生きよ
疲れていると手紙に書いてみたけれどぼくは死なずに生きる予定だ
消しゴムが丸くなるごと苦労してきっと優しくなってゆくのだ
一方で、このように自分を奮い立たせるような歌も詠んでいますが、しかし、(当然ながら)残酷な記憶を消し去ることはできなかったのです。
前回、職場で息子ほど歳の離れた若い社員から罵声を浴びせられた知人の話を書きましたが、作者が抱いていた生きる苦しみや哀しみは、私達とて無縁ではないのです。
彼は、よく自転車に乗って界隈を探索していたようで、自転車の歌もいくつかありました。
公園に若きふたりが寄り添っている すぐそばに自転車置いて
春の夜のぬくき夜風吹かれつつ自転車を漕ぐわれは独り身
寒空を走るランナーとすれ違いたるぼくは自転車を漕いでいるのだ
私は、これらの歌を読んだとき、ふと寺山修司の次のような歌を思い出しました。
きみのいる刑務所の塀に 自転車を横向きにしてすこし憩えり
しかし、昨年6月、第一歌集の『滑走路』を入稿し終えたあと、作者の萩原慎一郎氏は、みずから死を選んだのでした。32年の短い人生でした。
作者も「あとがき」で名前を挙げていますが、歌人の岡井隆氏に『人生の視える場所』という歌集があります。しかし、「人生の視える場所」に立っても、眼前に広がるのは、必ずしもきれいな、心休まる風景とは限らないのです。
巨いなる寂しさの尾を踏み伝ふ一歩一歩の爪さきあがり
(『人生の視える場所』)
こういった歌も、作者の心の奥底にあるものを氷解させることはできなかったのです。
「悲しみ」とただ一語にて表現できぬ感情を抱いているのだ
作者は、そう歌っていますが、私は「むごい」という言葉しか持てませんでした。