
私は、週に2~3日は東横線(副都心線)で渋谷を通っています。車でもよく246や明治通りを通ります。
しかし、考えてみたら、もう1年くらい渋谷で途中下車したことがありません。最近はめっきり足が遠ざかっています。私にとって渋谷は、いつの間にか通過するだけの街になっていたのです。
今月、BSフジの「TOKYOストーリーズ」という番組で、二週に渡って「さよなら渋谷90s」と題し渋谷を特集していました。また、昨日のテレ東の「アド街」でも、「百年に一度の再開発」が行われている渋谷を特集していました。
それで、今日、久しぶりに渋谷で途中下車して、変わりゆく渋谷の街を歩きました。
私が一番渋谷に通っていたのも90年代です。「さよなら渋谷90s」では、牧村憲一(音楽プロデューサー)・谷中敦(東京スカパラダイスオーケストラ)・カジヒデキ・鈴木涼美・石川涼(アパレルブランド・せーの代表)・藤田晋(サイバーエージェント代表)・Licaxxx(DJ)らが、みずからの“渋谷体験”を語っていました。ただ、鈴木涼美とLicaxxxは、90年代の渋谷を語るには年齢的に若すぎ、明らかに人選ミスだと思いました。
もっとも番組で語られる渋谷は、パルコの広告戦略に象徴されるような公園通りを中心とした渋谷にすぎません。カジヒデキは、「95年頃に『渋谷系』ということばは終わった」と言ってましたが、私は最初から「渋谷系」ということばにすごく違和感がありました。このブログでも書いているように、私も、セゾン(パルコ)とは仕事をとうして関わっていましたが、しかし、公園通りの風景は渋谷のホンの一面でしかないのです。まして、藤田晋がヒップホップを語るなんて悪い冗談だとしか思えません。
昔、起業したばかりでまだ無名の藤田に密着したドキュメンタリー番組を観たことがありますが、そのなかで、田舎の両親が原宿かどこかのアパートでひとり暮らしする息子の行く末を心配しているシーンがあったのを思い出しました。エリートやボンボンによくある話ですが、渋谷を語るのに、昔はちょっとヤンチャだったと虚勢を張りたかっただけなのでしょう。ヒップホップもいいようにナメられたものです。
過去というのは、このように語る人間に都合のいいようにねつ造されるものなのです。それは、国家の歴史に限らず個人においても然りです。
彼らが語る渋谷には、ストリートの思想がまったくありません。そこには、ただ資本に踊らされる予定調和の文化があるだけです。
谷中敦は、番組のなかで、渋谷をうたった詩を朗読していましたが、そのなかにソウルフラワーユニオンの歌のタイトルを彷彿とさせるような「踊れないのではなく踊らないのだ」という詩句がありました。でも、谷中敦だって、「踊っていた」のではなく、「踊らされていた」だけではないのか。そして、これからも渋谷を支配する東急資本に踊らされるだけなのだろうと思います。都市と言っても、昔の都市(まち)と今の都市ではまったく違うのです。渋谷がなによりそれを象徴しているのです。
私は当時、南口の東急プラザの裏の、玉川通りから脇に入った路地によく車を停めていましたが、あたりにはまだラブホテル(というより「連れ込み旅館」と言ったほうがふさわしいような古いホテル)が残っていました。
夜遅く、車を取りに坂を上ると、暗がりに人がウロウロしているのです。最初は、なんだろうと怪訝に思って見ていました。でも、やがて彼らの目的がわかったのでした。イラン人からクスリ?を買うために来ていたのでした。イラン人たちは、ビルの前の植え込みなどにクスリ?を入れたビニール袋を隠していました。初めの頃は私もイラン人たちから警戒されているのがわかりました。しかし、やがて彼らの敵ではないことがわかると、目で挨拶されるようになりました。
路地で「東電OL」とすれ違ったこともありました。彼女の”仕事場”は、道玄坂の反対側の神泉や円山町あたりでしたが、ときどき道玄坂を横切り、坂の上から裏道を降りて東急プラザに来ていたのでしょう。
でも、今は東急プラザは壊され、跡地はステンレスの囲いで覆われ、来年の秋の開業に向けて新しいビルが建築中です。周辺も人通りが少なく殺風景になっていました。
牧村憲一は、「渋谷で知っているところはもう9割がた失くなった」と言ってましたが、私も歩いていたらいつの間にか、新しい渋谷より知っている渋谷を探している自分がいました。

























