ワイドショーでもおなじみ、ジャーナリストのモーリー・ロバートソン氏が、『週刊プレイボーイ』のコラムで、イギリスのガーディアン紙でのスラヴォイ・ジジェクの発言を取り上げていました。

Yahoo!ニュース(週プレNEWS)
左派賢人の過激な問い。"世界のトランプ化"はリベラルのせい?

ロバートソン氏の要約によれば、ジジェクの発言はつぎのようなものです。

〈(略)今、リベラル陣営はグローバル経済の構造自体の欠陥に関する議論よりも、倫理やモラル、多様性、ゲイライツ、人種差別といった"小さな問題"にばかり注目するようになっている。

本筋から逃亡し、"正しい側"の席に座り、"正しいこと"を叫ぶだけでは何も変わらない。左派が本質的な原因に目を向けることなく、本来すべき役割を果たさないからこのような社会になっているのだ〉


つづけて、ジジェクの発言について、ロバートソン氏はつぎのように注釈を加えていました。

ジジェクは、リベラル陣営がトランプら右派政治家の言動ばかりに目を奪われるのは「バカげている」と喝破(かっぱ)します。極右の再興はあくまでもグローバリズムの暴走、格差の拡大による"二次的な症状"である。

にもかかわらず、右派陣営に煽(あお)られるがままに、反差別や多様性といった"些末(さまつ)なこと"を追いかけても、この社会はよくならない。いや、むしろ右派ポピュリズムは拡大していくだけだ――。

身もふたもない言い方をすれば、ジジェクは「左派はきちんとゼニの話をしろ」と言っているのです。


左派がリベラル化するにつれ、社会の根本にある下部構造の話をしなくなったというのは、そのとおりでしょう。それゆえ、「極右の再興はあくまでもグローバリズムの暴走、格差の拡大による"二次的な症状"である」という視点すら持てなくなっているのです。成長や繁栄から置き去りにされ、大労組からも見捨てられたアンダークラスの人々こそ、右か左かに関係なくプロレタリアートと呼ぶべきなのです。

また、ジジェクは、つぎにような大胆な発言もしています。

〈混乱した社会の中で左派に惹(ひ)かれる人々は、決まって理想やモラルを叫ぶ。だからこそ、こういうときに一番大事なのは民衆の声を聞かないことだ。民衆はパニックに陥っており、そこには知恵などない。これまでも民の声を聞いた結果、ポピュリズムとファシストしか出てこなかったじゃないか〉


思わず「異議なし!」と叫びたくなりました。

ジジェクは、「はじめは悲劇として、二度目めは笑劇として」というマルクスの有名な箴言が副題に付けられた『ポストモダンの共産主義』(ちくま新書)でも、つぎのように書いてました。

 じつは進行中の危機の最大の犠牲者は、資本主義ではなく左派なのかもしれない。またしても世界的に実行可能な代案を示せないことが、誰の目にも明らかになったのだから。そう、窮地に陥ったのは左派だ。まるで近年の出来事はそれを実証するために仕組まれた賭けでもあったかのようだ。そうして壊滅的な危機においても、資本主義に代わる実務的なものはないということがわかったのである。
『ポストモダンの共産主義』


ジジュクは、別の章では、構造改革は「詭弁」だとも書いていました。

左派が下部構造=経済の話をしなくなったというのは、ブレイディみかこ氏も常々指摘していることです。ブレイディみかこ氏の発言も、ジジェクと重なるものがあります。

ブレイディ 両極化する世界とか中道の没落とか言われてますけど、それはあくまで地上に見えている枝や葉っぱの部分で、地中の根っこはやっぱり経済だと思います。中道がいつまでも「第三の道」的なものや緊縮にとらわれて前進できずにいるから、人びとがもっと経済的に明るいヴィジョンを感じさせる両端にいっている。

シノドス
「古くて新しい」お金と階級の話――そろそろ左派は〈経済〉を語ろう
ブレイディみかこ×松尾匡×北田暁大


先日、パリのシャンゼリゼ通りのガソリン価格の高騰や燃料税引き上げに抗議するデモで、「一部が暴徒化した」というニュースがありましたが、その街頭行動の背景に、2017年の大統領選挙の第一回投票で、マクロンにつづいて極右・国民連合(国民戦線)のマリーヌ・ル・ペンが2位、そして、ニューレフト(新左翼)の左翼党(不服従のフランス)を率いるジャン=リュック・メランションが3位を獲得したという、フランスにおける「流動的」な政治情勢が伏在しているのは間違いないでしょう。

それは、(このブログでも再三書いていますが)フランスに限った話ではありません。ヨーロッパでは、反グローバリズム・反資本主義において、極左と極右がせめぎあいを演じているのです。そういったせめぎあいは、右か左かでは理解できない状況です。

上記の『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』のなかで、社会学者の北田暁大氏が、“社会学の陥穽”について、「自戒を込めて」つぎのように言ってました。

北田 経済がどうやって発展するとか、社会が安定的に成長していくには具体的にはどうしたらいいのかって発想がなくて、全部制度的な公正性の原理だけで物事を考えているわけですよ。

(略)いまの社会学って、方法はさまざまありますが、やっぱり制度を比較に基づいて分析する学問だから。「その制度は不公正ですよ」「この制度では機能していませんよ」ということは言えるんですけど、どうやったら社会が全体的に「豊か」になるのか、そもそも社会を「豊か」にするとはどういうことなのかって発想が欠落しているんですよね。

(略)イスの数は決まっていて、その分配については不公平がある、その不公平はこのような形で生み出される、という分析は大切ですが、イスの数を増やすという発想は薄い。じゃあ、誰かのイスを取り上げるしかない、ということになりがちです。


これは、社会学の問題だけでなく、リベラルの限界であり、リベラル化した左派の限界でもあるでしょう。もとより私たちも「自戒」とすべき事柄でもあります。
2018.11.27 Tue l 社会・メディア l top ▲