小室さん母子がメディアやネットから叩かれているのを見るにつけ、私は違和感を抱かざるを得ません。これこそ「ネットとマスメディアの共振」(藤代裕之氏)で生み出される“私刑”の構造と言えるでしょう。
男女間の問題には、第三者が伺い知れないデリケートなものがあるのは言うまでないことです。ときにお金が絡むことだってあるでしょう。関係が順調なときは「いいよ。いいよ」と言いながら、関係が冷えると「あのときのお金を返せ」と言い出し、トラブルになるのもめずらしい話ではありません。そこからストカーに豹変するケースもあるでしょう。と言うか、「お金を返せ」と言うこと自体、もはやストーカーの心理と言えないこともありません。
借用書が存在しない限り、譲渡と見做されるのは素人でもわかる話です。元交際相手の男性が弁護士に相談したら、「あきらめるしかない」と言われたのは当然です。そういった世間の常識もどこかに吹っ飛んでいるのです。
私は小室さん一家と最寄り駅が同じで(一度駅で小室さんを見かけたことがあります)、小室さんが通っていた幼稚園はすぐ近所ですし、小室さんが学生時代にアルバイトをしていたレストランにも食べに行ったことがあります。もちろん、小室さん一家が住んでいるマンションも知っています。でも、男性のことを聞いても誰も知らないと言います。どういう人物なのか知りたかったのですが、噂にも上らないみたいです。
男性は、法的には不利なためか、フリーライターだかが代理人に就いて、メディアを利用する戦略に切り替えたようで、最近は積極的にインタビューに答えています。しかし、小室さん母子が立場上表だって反論できないことをいいことに、自分に都合のいい情報だけを発信している感は否めません。
別れたあとになって「あのときのお金を返せ」と言うのは、古い言い方をすれば「男の風上にもおけない」のです。右派のマッチョイズムから言っても、むしろ交際相手の男性の方こそ非難されても仕方ないのです。
ところが、なぜかメディアも大衆も、ストカーまがいの男性を被害者に仕立てて、批判の矛先をもっぱら小室さん母子に向けるばかりです。
眞子さんは結婚すれば皇室を離れ「民間人」になるのです。彼女は、今どきの女の子と同じように(皇族のなかでは初めてと言っていい)自由な恋愛を実践したのです。でも、メディアや大衆はそれが気に入らないのでしょう。「品格」なることばを使うのは、皇族をいつまでも(不自由な)カゴのなかに閉じ込めておこうという魂胆さえ感じてなりません。茶道の家元や神社の神官や殿様の末裔や公務員なら「品格」があるとでも言うのでしょうか。「品格」なるものの前には、恋愛の自由も許されないかの如くです。そもそも罪多き人生を送る私たちが、他人(ひと)様の結婚に対して、「品格」なんてことばを使う資格などあるのでしょうか。
小室さんバッシングの裏には、大衆の妬みや嫉みが伏在しているように思えてなりません。そこにあるのは、皇族の恋愛をきっかけに露呈した大衆の負の感情です。生活保護叩きなどと構造は同じです。メディアはネットに同調することで、大衆の心の奥底に潜む負の感情に火を点けたとも言えるのです。
今の状況のまま結婚に至るにはまだ難しい気もしますが、一方で小室さんが開き直っているように見えるのも、眞子さんの小室さんに対する気持が変わらないからでしょう。しかし、大衆はそのようには考えません。小室さん母子は皇室を利用しようとしているなどと陰険で底意地の悪い見方しか持てないのです。なんだかおぞましささえ覚えますが、もとより私たちの(市民としての)日常性は、そういったおぞましさによって仮構されているのだということをゆめゆめ忘れてはならないでしょう。
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勝間カミングアウトとジャーナリズムのあり方
私刑の夏
男女間の問題には、第三者が伺い知れないデリケートなものがあるのは言うまでないことです。ときにお金が絡むことだってあるでしょう。関係が順調なときは「いいよ。いいよ」と言いながら、関係が冷えると「あのときのお金を返せ」と言い出し、トラブルになるのもめずらしい話ではありません。そこからストカーに豹変するケースもあるでしょう。と言うか、「お金を返せ」と言うこと自体、もはやストーカーの心理と言えないこともありません。
借用書が存在しない限り、譲渡と見做されるのは素人でもわかる話です。元交際相手の男性が弁護士に相談したら、「あきらめるしかない」と言われたのは当然です。そういった世間の常識もどこかに吹っ飛んでいるのです。
私は小室さん一家と最寄り駅が同じで(一度駅で小室さんを見かけたことがあります)、小室さんが通っていた幼稚園はすぐ近所ですし、小室さんが学生時代にアルバイトをしていたレストランにも食べに行ったことがあります。もちろん、小室さん一家が住んでいるマンションも知っています。でも、男性のことを聞いても誰も知らないと言います。どういう人物なのか知りたかったのですが、噂にも上らないみたいです。
男性は、法的には不利なためか、フリーライターだかが代理人に就いて、メディアを利用する戦略に切り替えたようで、最近は積極的にインタビューに答えています。しかし、小室さん母子が立場上表だって反論できないことをいいことに、自分に都合のいい情報だけを発信している感は否めません。
別れたあとになって「あのときのお金を返せ」と言うのは、古い言い方をすれば「男の風上にもおけない」のです。右派のマッチョイズムから言っても、むしろ交際相手の男性の方こそ非難されても仕方ないのです。
ところが、なぜかメディアも大衆も、ストカーまがいの男性を被害者に仕立てて、批判の矛先をもっぱら小室さん母子に向けるばかりです。
眞子さんは結婚すれば皇室を離れ「民間人」になるのです。彼女は、今どきの女の子と同じように(皇族のなかでは初めてと言っていい)自由な恋愛を実践したのです。でも、メディアや大衆はそれが気に入らないのでしょう。「品格」なることばを使うのは、皇族をいつまでも(不自由な)カゴのなかに閉じ込めておこうという魂胆さえ感じてなりません。茶道の家元や神社の神官や殿様の末裔や公務員なら「品格」があるとでも言うのでしょうか。「品格」なるものの前には、恋愛の自由も許されないかの如くです。そもそも罪多き人生を送る私たちが、他人(ひと)様の結婚に対して、「品格」なんてことばを使う資格などあるのでしょうか。
小室さんバッシングの裏には、大衆の妬みや嫉みが伏在しているように思えてなりません。そこにあるのは、皇族の恋愛をきっかけに露呈した大衆の負の感情です。生活保護叩きなどと構造は同じです。メディアはネットに同調することで、大衆の心の奥底に潜む負の感情に火を点けたとも言えるのです。
今の状況のまま結婚に至るにはまだ難しい気もしますが、一方で小室さんが開き直っているように見えるのも、眞子さんの小室さんに対する気持が変わらないからでしょう。しかし、大衆はそのようには考えません。小室さん母子は皇室を利用しようとしているなどと陰険で底意地の悪い見方しか持てないのです。なんだかおぞましささえ覚えますが、もとより私たちの(市民としての)日常性は、そういったおぞましさによって仮構されているのだということをゆめゆめ忘れてはならないでしょう。
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