2019年4月帰省1


ふと思いついて、二泊三日で九州に帰りました。昨年十月に帰りましたので、半年ぶりの帰省です。

いつものように墓参りをして、友人たちと会いました。また、高校時代の友人と喫茶店で待ち合わせていたら、そこに別の同級生が偶然やって来たりと、田舎ならではの邂逅もありました。

前の記事でも書きましたが、私は、中学を卒業すると、親元を離れてまちの学校に行ったので、小中学校の友達はひとりもいません。もちろん、幼馴染はいますが、彼らとも疎遠になっています。

祖父母と両親が眠る墓は、田舎の菩提寺にあるのですが、しかし、既に実家もありませんので、生まれ故郷の町に帰っても、ただ墓参りをするだけで誰に会うこともありません。

とは言ってもやはり、自分が生まれ、祖父母と両親が眠る町は特別なものです。心の中には、子どもの頃の風景がずっと残っているのでした。今回も空港から真っ先に向かったのは、生まれ故郷の町でした。

町に近づくと新しく作られたバイパスから離れ、昔の道に入りました。雑草が生い茂った道沿いには、住人がいなくなって放置された家が点々とありました。昔は、県庁所在地の街から実家のある町まで、路線バスで二時間半かかりました。バスは、大正時代(?)泥棒を県庁所在地の警察署まで護送する際、用を足していた巡査が泥棒から突き落とされたという逸話が残る「巡査落としの谷」を眼下に見ながら峠を越すのですが、峠の突端にある商店で十分間のトイレ休憩をするのが決まりでした。

その商店も人影もなく朽ちていました。しかし、店の看板やビール瓶ケースはそのまま残されていました。外観が痛んでいることを除けば、今も住人が住んでいるのではと錯覚を覚えるくらい、生活の痕跡もそのまま残っていました。

商店の前を通る道も雑草で覆われ、昔はこんな狭い道をバスが走っていたのかと思いました。バイパスは、峠にトンネルが掘られ、その中を走っているのです。

商店の前のバス停から同じ中学に通っていた一学年下の女の子がいました。そこから三十~四十分かけてバスで通学していたのです。

彼女とは高校生のとき、一度だけ会ったことがあります。中学時代は、映画館もスーパーもない山奥の町でしたので、デートなんて望むべくもなかったのですが、高校になってから連絡をとり、二人で映画を観に行ったのでした。朽ちて傾きかけた家を前にして、そんな甘酸っぱい思い出がよみがってきました。

墓参りのあとは、地元の会社に勤めていた頃の同僚を訪ねて、来たときとは反対側の山を越え、彼が住んでいる町へ行きました。

同僚と言っても、私よりひと回り以上も年上で、既に七十歳を越え、今は奥さんと二人でのんびりと老後を過ごしています。夕方までお喋りをして帰ろうとすると、「夕飯を食べに行こうや」と言われました。

それで、三人で町内にある和食の店に行きました。彼もガンで何度か手術をしています。痩せて見た目も変わり、声も弱々しくなっていました。でも、口をついて出るのは、昔と変わらないトンチの効いた明るい話ばかりでした。店の前で別れ車を走らせると、外灯の下でこちらに向かって手を振りつづけている姿がルームミラーに映っていました。

二日目は、別府から車を飛ばして宇佐神宮にお参りに行きました。私は、宇佐神宮は初めてでした。翌日、高校の同級生たちと会ったとき、宇佐神宮に行った話をしたら、高校三年の冬休みに、十人くらいで汽車に乗って宇佐神宮に行ったことがあると言うのです。

「お前も行かなかったっけ?」と言われましたが、私は行っていません。受験の合格祈願に行ったのだそうです。翌月には、合格祈願に行った友人たちと受験のため一緒に上京しているのです。どうして私だけが抜けていたのか、しかも、今までその話を知らなかったのか、なんだかわけもなくショックを覚えました。

宇佐神宮は、全国の八幡さまの総本宮と言うだけあって、想像以上に大きな神社でした。クラブツーリズムのツアーでやってきたお年寄りたちが前を歩いていましたが、「伊勢神宮と同じくらい広いな」と言っていました(いくらなんでもそれはオーバーでしょう)。宇佐神宮は、前も書きましたが、「六郷満山」と呼ばれる国東半島の寺々に大きな影響を与え、独特な神仏習合の仏教文化を生み出したのでした。でも、最近、宮司の跡継ぎ問題で内紛が起き、裁判沙汰になったそうです。

宇佐神宮のあとは、豊後高田市の「昭和の町」へ行きました。宇佐神宮から車で10分くらいでした。私たちの世代の人間にとって、豊後高田と言えば、バスケットの強豪校の高田高校がある街というイメージしかありません。ところが、20年くらい前からさびれた商店街を逆手に取った町おこしが行われ、それが見事に当たったのです。さまざまなメディアに取り上げられて、「昭和の町」はいっきに全国区の町になったのでした。

しかし、行ってがっかりでした。平日ということもあってか、文字通り閑古鳥が鳴いていました。休日になれば訪れる人も多くなるのかもしれませんが、これではレトロではなくただのさびれた町だと思いました。

閑古鳥が鳴いているのは「昭和の町」だけではありません。県内のほかの温泉地や観光施設も、地元の人間に訊くと、意外にも悲観的な声が多いのです。メディアでふりまかれるイメージやトリップアドバイザーのレビューでは伺い知れない現状があるようです。このままではインバウンドの「千客万来」も、一夜の夢に終わる懸念さえあるでしょう。

今回も旧知の人間たちと会い、昔話に華を咲かせましたが、しかし一方で、だんだん田舎に帰るのがしんどくなっているのを感じます。それは、体力面ではなく、多分に精神的なものです。このもの哀しさはなんだろうと思います。

なつかしさに駆られて田舎に帰るものの、戻ってくるときは、いつも暗い気持になっている自分がいます。田舎で目に入るのは、”黄昏の風景”ばかりです。坂口安吾ではないですが、なつかしさというのは残酷なものでもあるのです。そのため、東京に戻る飛行機の中では、いつもこれで最後にしようと思うのでした。


2019年4月帰省2
原尻の滝1(豊後大野市)

2019年4月帰省3
原尻の滝2

2019年4月帰省4
宇佐神宮1

2019年4月帰省5
宇佐神宮2

2019年4月帰省6
宇佐神宮3

2019年4月帰省7
宇佐神宮4

2019年4月帰省8
宇佐神宮5

2019年4月帰省9
昭和の町1(豊後高田市)

2019年4月帰省10
昭和の町2

2019年4月帰省11
昭和の町3
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