先日、NHKの「クローズアップ現代」で、「独自映像 “ショーケン”最期の日々」と題してショーケンのプライベート映像が放送されていました。GIST(消化管間質腫瘍)を発病したあと、八年間に渡って撮りだめた53時間の映像がNHKに託されたのだそうです。
映像には、死を意識しながら仕事に取り組むショーケンの姿が克明に記録されていました。前に『日本映画[監督・俳優]論』を取り上げた中でも書きましたが、ショーケンの俳優としての覚悟と「感受性の高さ」が映像にも出ていました。
ショーケンは、四度目の結婚に際して、今までジェットコースターのような人生だったけど、メリーゴーランドのような穏やかな人生を送りたいと言っていたそうで、映像の中でも、奥さんに対する感謝のことばを述べている場面がありました。
死を前にしたとき、家族がどんなに支えになったことでしょう。家族のいない私は、ひとりで死んでいく覚悟は持っているつもりです。しかし、それでも、孤独な死に耐えられるだろうかと思ったりもします。その意味では、ショーケンが羨ましくもあります。
ただ、一方で、ショーケンには(ショーケンだけは)最後まで破天荒でいてもらいたかったという気持もあります。
映像の中で、ショーケンは、今まで三回結婚したけど、ひとりの女性も幸せにできなかった、ひとりの女性も幸せにできない男になりたくないというようなことを言ってました。
でも、私は、ショーケンからそんなことばを聞くのは、ちょっとさみしい気持がしました。
破天荒なら破天荒でいいじゃないか。別に丁寧に生きなくたっていいじゃないかと思います。最後まで破天荒を貫くことで、映画や文学の本質にせまることができるはずです。俳優にとって(表現を生業とする人間にとって)、それこそ本望なのではないでしょうか。
何度も引用して恐縮ですが、ショーケン自身も、神代辰巳監督について、次のように語っているのです。
芸能人というのは、市民社会の埒外に存在するものです。サラリーマンではないのです。サラリーマンの嘘臭さの対極にいるのが芸能人なのです。それは作家も同じです。
たしかに、死を前にすると、常識や規範や日常(家族)といった”市民的価値意識”に身を委ねたくなる気持もわからないでもありません。
でも、人間というのはもともと破天荒で矛盾だらけで、”市民的価値意識”に収まりきれない存在なのです。文学や映画が描こうとしているのも、そういった人間存在の真実なのです。人様に身を晒して生きる芸能人こそ、ことばの真正な意味においてヤクザな存在なのです。「河原乞食」には「河原乞食」の矜持があるはずです。だからこそ、差別をあこがれへと止揚することができるのです。
関連記事:
『日本映画[監督・俳優]論』
映像には、死を意識しながら仕事に取り組むショーケンの姿が克明に記録されていました。前に『日本映画[監督・俳優]論』を取り上げた中でも書きましたが、ショーケンの俳優としての覚悟と「感受性の高さ」が映像にも出ていました。
ショーケンは、四度目の結婚に際して、今までジェットコースターのような人生だったけど、メリーゴーランドのような穏やかな人生を送りたいと言っていたそうで、映像の中でも、奥さんに対する感謝のことばを述べている場面がありました。
死を前にしたとき、家族がどんなに支えになったことでしょう。家族のいない私は、ひとりで死んでいく覚悟は持っているつもりです。しかし、それでも、孤独な死に耐えられるだろうかと思ったりもします。その意味では、ショーケンが羨ましくもあります。
ただ、一方で、ショーケンには(ショーケンだけは)最後まで破天荒でいてもらいたかったという気持もあります。
映像の中で、ショーケンは、今まで三回結婚したけど、ひとりの女性も幸せにできなかった、ひとりの女性も幸せにできない男になりたくないというようなことを言ってました。
でも、私は、ショーケンからそんなことばを聞くのは、ちょっとさみしい気持がしました。
破天荒なら破天荒でいいじゃないか。別に丁寧に生きなくたっていいじゃないかと思います。最後まで破天荒を貫くことで、映画や文学の本質にせまることができるはずです。俳優にとって(表現を生業とする人間にとって)、それこそ本望なのではないでしょうか。
何度も引用して恐縮ですが、ショーケン自身も、神代辰巳監督について、次のように語っているのです。
これはあの人のいいところでもあるんだけど、名刀を持っているくせして、止めを刺せない優しさがあるんです。獲物を捕ってもさらに止めを刺せ、というんだ。でも刺せない。それがあの人の優しさなんだな。止めを刺せよ。もう死んでるも同然じゃないか。これ以上生かしておいたらかわいそうだよ。生き物なんだから。映画監督なら止めを刺さなきゃ。それが黒澤にも溝口(健二)にも小津(安二郎)にもあるんだよ。人間としての残酷さが。
(『日本映画[監督・俳優]論』)
芸能人というのは、市民社会の埒外に存在するものです。サラリーマンではないのです。サラリーマンの嘘臭さの対極にいるのが芸能人なのです。それは作家も同じです。
たしかに、死を前にすると、常識や規範や日常(家族)といった”市民的価値意識”に身を委ねたくなる気持もわからないでもありません。
でも、人間というのはもともと破天荒で矛盾だらけで、”市民的価値意識”に収まりきれない存在なのです。文学や映画が描こうとしているのも、そういった人間存在の真実なのです。人様に身を晒して生きる芸能人こそ、ことばの真正な意味においてヤクザな存在なのです。「河原乞食」には「河原乞食」の矜持があるはずです。だからこそ、差別をあこがれへと止揚することができるのです。
関連記事:
『日本映画[監督・俳優]論』