10連休の最後の日。私は、開店したばかりの駅裏のスーパーに行きました。さすがにお客さんは数えるほどしか入っていません。

店の中では、多くの人たちが品出しをしていました。私は、レジに並ぶのが嫌なので、朝の開店間際に行くことが多いのですが、品出しをしている人たちの顔触れもいつも同じです。60代くらいの初老の人たち(それも男性)が目に付きます。早朝の品出しのときだけ仕事をしているパートの人たちなのでしょう。

レジも含めて、見事なほど若い従業員はいません。店内には、「○○(店名)では、働く仲間を募集しています。興味のある方はお近くの店員にお気軽にお声かけ下さい」という放送が繰り返し流れていました。

買物を終えレジに向かうと、まだレジは一つしか空いていませんでした。そこには、既に三人のお客さんが並んでいました。

いづれも70を越しているような高齢者でした。三人とも「みすぼらしい」と言ったら語弊がありますが、着古したヨレヨレの服を着て、おせいじにもオシャレとは言い難い、なんだか普段の生活の様子が伺えるような恰好でした。おそらく独り暮らしの老人たちではないでしょうか。

私が住んでいる街は、東横線沿線の人気の住宅地です。「どこに住んでいるのですか?」と訊かれて、駅名を言うと、「いいところに住んでいますね」とよく言われます。

そのため、一方で、若い女性や30~40代の若い夫婦も多く住んでいます。近所に近辺では人気の(と言われている)幼稚園がありますが、子どもを送り迎えするお母さんたちは、送り迎えするだけなのにどうしてと思うくらい、総じてオシャレな格好をしています。午後になれば、そんな幼稚園にお迎えに行ったあとの母子連れが買い物にやってきます。その頃は、品出しも終わっており、パートの人たちの姿も店内からは消えています。また、夜になると、店内は仕事帰りの若い女性たちの姿が目立つようになります。

そんな他の時間帯に比べると、開店間際の店内は圧倒的に高齢者の比率が高いのでした。

レジに並んでいる老人たちが手にしている買い物カゴの中は、質素と言えば聞こえはいいですが、哀しいくらいわずかしか商品が入っていません。私の前は、車椅子に乗っているかなり高齢の女性でしたが、160円の卵のパックと28円のモヤシが一つ入っているだけでした。その前の男性は、110円だかの食パン二つに、やはりモヤシが一つ入っているだけでした。みんな、財布から小銭をひとつひとつ出して精算していました。そのため、やけに時間がかかるのでした。

同じ老人でも、違う時間帯になれば、見るからに余裕がありそうな夫婦連れなどが多くなります。以前は、メディアでお馴染みの元金融エリートの「上級国民」の姿を見かけたことさえあります。それに比べれば、このつつましやかな光景はなんだろうと思いました。

そんな中で、私は、(嫌味に聞こえるかもしれませんが)カゴいっぱいの買物をして、4千円弱の代金をクレジットカードで払ったのでした。と言って、別に優越感に浸ったわけではありません。たしかに、老人たちをやや憐み、同情したのは事実ですが、でも、彼らと違うのは「今だけ」だというのが重々わかっているからです。まだ仕事にありついているので、経済感覚もなく買い物をしてクレジットカードで払う「余裕」があるだけなのです。

私と前に並んでいる老人たちは紙一重なのです。彼らは明日の自分の姿でもあるのです。憐み、同情しても、いづれ自分に返ってくるだけです。そう思うと、あらためて現実を突き付けられた気がして、否応なく暗い気持にならざるを得ないのでした。


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2019.05.06 Mon l 日常・その他 l top ▲