突然、知人からえらく憤慨した電話がかかってきました。と言っても、私に憤慨しているわけではなく、憤慨しているのはメディアに対してです。誰でもいいから話を聞いてもらい、憂さを晴らしたかったのかもしれません。

それは、メディアでも大々的に取り上げられたあるスキャンダルに関するものでした。どういういきさつか知りませんが、知人はスキャンダルの主と親しく、いろいろと相談に乗っていたようです。

知人が言うには、メディアが書いていることはデタラメで、メディアの背後では、スキャンダルの主を潰そうとする大きな力がはたらいているのだと言ってました。

と言うと、よく聞く台詞なので眉に唾したくなりますが、しかし、仔細に話を聞くと、知人が憤慨する気持はわからないでありませんでした。話を聞く限り、スキャンダルの内容についても、スキャンダルの主の人物像についても、メディアが伝えるものとはまったく別の印象がありました。そして、ここにも大塚英志氏が言う「旧メディアのネット世論への迎合」が垣間見えるのでした。

最初から結論ありきのスキャンダルと悪意のある印象操作。しかし、個人の力はあまりに小さく弱いのでした。そうやってひとりの人間の人生がいいように弄ばれるのです。

ネットは言わずもがなですが、私が注目したのは、スキャンダルに対する左派リベラルと言われている者たちの反応でした。

彼らもまた、低俗且つご都合主義的なリゴリズムをネットや世間と共有し、印象操作に与するばかりなのでした。政治的なテーマだと世間に異(らしきもの)をとなえることはありますが、個人のスキャンダルなどでは、いともあっさりと俗情と結託するのでした。

フーコーが言うように、権力というのは、国家や政治など大状況の中だけに存在するのではなく、私たちをとりまく日常的な小状況の中にも潜んでいるのです。右と左のイデオロギーの違いに大きな意味はないのです。右と左は双面のヤヌスみたいなもので、そうやって手を携えてこの社会の安寧と秩序に貢献しているのでした。

「言論の自由なんてない、あるのは自由な言論だけだ」という竹中労の口吻をもじって言えば、言論の自由なんてないのです、あるのは”不自由な言論”だけです。

でも、それは、メディアがもの言えば唇寒い状況に追い込まれているということではありません。江藤淳が言う戦後の「閉ざされた言語空間」とは別の意味で、この国のメディアは最初から「閉ざされた言語空間」の中にあり、”不自由な言論”のシステムに組み込まれているのです。言論の自由なんて虚構にすぎないのです。

軍事独裁政権時代の残滓の一掃を目指す韓国の文在寅政権と検察の対立はますます激しくなっていますが、日本のメディアの問題を考えると、韓国検察の”不都合な真実”も決して他人事ではないのです。むしろ、個人のスキャンダルだからこそ、メディアの本質がよく見える(露呈されている)ということはあるでしょう。
2019.10.01 Tue l 社会・メディア l top ▲