香港情勢は、重大且つ悲劇的な局面を迎えています。戦いの先頭に立つ学生たちに対する香港政府の弾圧は熾烈を極めています。国際政治の冷酷な現実の前で、学生たちは文字通り孤立無援の戦いを強いられているのです。

香港政府の姿勢の背後に、中国共産党の意向(と指示)があるのは子どもだってわかる話でしょう。「一国二制度」が如何に欺瞞に満ちたものであるのかが如実に示されているのです。と同時に、恐怖政治と表裏一体の共産党権力の実態が白日のもとにさらけ出されてもいるのです。共産党の言う「人民民主主義」なるものが、ファシズムの別名でしかないことをあらためて確認させられた気がします。

「革命的左翼」を名乗る日本の新左翼の党派が、今回の香港情勢にどのような見解を示しているのか、興味があったので各党派のサイトを見てみましたが、多くはまったく触れてないか、あるいは触れていても「学生たちの戦いが香港政府を追いつめている」程度のサラッとしたものでした。香港の学生たちに連帯せよというようなアジテーションすらありませんでした。まして、中国共産党を批判する論調は皆無でした。

反スターリン主義を標榜する新左翼の党派が、スターリン主義の権化のようになっている自己撞着を考えれば、ある程度予想されていたことではありますが、今更ながらに左翼のテイタラクを痛感させられました。

日本の新左翼は、ハンガリー動乱をきっかけに既成左翼を乗り越えるべくトロッキズムを旗印にその産声をあげたのですが、もはやそういった思想的なデリカシーも失ってしまったということなのでしょう。なんともおぞましい光景なのかと思ってしまいます。

中国共産党の姿勢が示しているのは、人間を機械論的に解釈する左翼思想特有の(非人間的な)ものの考えです。それは、かの前衛主義に由来するものです。埴谷雄高ではないですが、前衛主義が大衆蔑視に裏付けられているのは言うまでもないでしょう。

いづこの共産党もなにかにつけ「人民大衆」を口にするのが常ですが、そんな共産党が人民大衆ともっとも遠いところで専制権力を恣(ほしいまま)にしているのです。それは、日本の左派リベラルも無関係ではありません。前にも書きましたが、大衆運動でときに見られる左派特有の“排除の論理”も、本質的には中国共産党の恐怖政治と通底するものがあるのです。

私は、再掲になりますが(文学的情緒で語ることを笑われるかもしれませんが)、次のような石原吉郎のことばを思い出さざるを得ません。

 日本がもしコミュニストの国になったら(それは当然ありうることだ)、僕はもはや決して詩を書かず、遠い田舎の町工場の労働者となって、言葉すくなに鉄を打とう。働くことの好きな、しゃべることのきらいな人間として、火を入れ、鉄を炊き、だまって死んで行こう。
(一九六〇年八月七日)

『石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫)・解説より


「反権力」「反体制」あるいは「野党」や「大衆」というだけで、どうしても甘く見てしまいますが、私たちは、右だけでなく左の全体主義に対しても、もっと深刻に考える必要があるのでないでしょうか。そして、二項対立の思考から自由にならなければならないのです。


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2019.11.19 Tue l 社会・メディア l top ▲