山に行くには当然ながら怪我のリスクも伴います。また、山登りは、お金のかかる趣味でもあります。服や用具も、「専門性」を盾にバカ高いのが常ですが、お金がかかるのは服や用具だけではありません。
よく山で会った人から、日帰りで山に行くのに、5千円の予算で納めるようにしているという話を聞きますが、私の場合、5千円ではとても納まりません。
昨日の大岳山に行ったときも、1万5千円おろして出かけたのですが、帰ってきて財布に残っていたのは2千円でした。パスモに5千円チャージしたのですが、残金は400円になっていました。このように交通費もバカにならないのです。私鉄に比べて割高なJRやバスを利用することが多いからでしょう。
これで月に3回から4回山に行くと、結構な出費になります。それ以外に、ちょくちょく用具を買い替えたりすると、山登りは贅沢な趣味の部類に入ると言っても過言ではないのです。
今は違いますが、昔は、山登りはインテリのスポーツと言われていました。私は、山登りの“拠点”でもあった九州のくじゅう連山の麓の温泉場で育ちましたが、たしかに昔は登山客はインテリが多かったように思います。ちなみに、くじゅう=久住で初めての遭難者は、九大(旧九州帝大)の医学部の学生のパーティです。
余談ですが、よくくじゅう=久住を「九重」と書きますが、あれは間違いです。深田久弥も九重山と書いていましたが、九重山なんてありません。正確には久住山です。久住山の麓にあるのは久住町で、九重町ではありません。くじゅう=久住連山の反対側(今は、九州横断道路ができて交通の便がよくなったので、“表側”のようになってますが)に九重町がありますが、あれは「くじゅうまち」ではなく「ここのえまち」です。
だから、私などは、山と高原地図で「九重山」と記載されているのを見ると、つい「ここのえやま」と読んでしまいます。もちろん、そんな山はありません。
また、くじゅう=久住で人気がある坊がつるや法華院温泉も、住所は竹田市(旧直入郡)久住町有氏です。九重町ではないのです。くじゅうの南口の登山口も、久住町有氏です。昔は、坊がつるや法華院温泉は山を越えて行くところだったのです。父親と一緒に久住連山の大船山に登ったときも、頂上から「あれが法華院で、その向こうが坊がつるだ」と教えてもらったことを覚えています。みんな、山を越えて、登山口と同じ町内の法華院や坊がつるに行っていたのです。坊がつると言えば、「坊がつる賛歌」が有名ですが、あの歌はもともと広島の高等師範(現広島大学教育学部)の山岳部の部歌を九大の山岳部が替え歌にして歌っていたもので、そこにも登山がインテリのスポーツであったことが伺えるのでした。
どうして、くじゅう=久住が九重になったのか。くじゅうが従来からあった阿蘇国立公園に入ることになったとき、新しい呼称を協議にするのに、山の反対側の(旧玖珠郡)九重町が「オレたちも『くじゅう』だ」と言い出したのでした。さらに、政治力を使って強引に「くじゅう」であることを主張したのでした。それまでの呼称に従えば、「阿蘇久住国立公園」になるはずでしたが、それに九重町が異を唱えたのでした。
うちの親たちも「そんなバカな話があるか」とひどく憤慨していましたが、しかし、九重側の政治力が功を奏して、折衷案として久住をひらがなで表記することになり、「阿蘇くじゅう国立公園」に決定したのでした。それが間違いのもとで、以後、徐々に「くじゅう」が「九重」に代わり、今のような「九重山」「九重連山」などというありもしない山名がまかりとおるようになったのです。
話が脇道に逸れましたが、登山がインテリのスポーツであったのは、それだけお金がかかるからという事情もあったでしょう。それと、登山と地質学や植物学や地理学や医学が切っても切れない関係にあったので、そういった学問的な関心を入口にしてインテリの間で登山が盛んになったという一面もあるのかもしれません。
イギリスの登山家ジョージ・マルローが、「どうして山に登るのか?」と問われて答えた(と言われる)、「そこに山があるから」ということばは人口に膾炙され有名になりましたが、(本多勝一氏も著書で書いていましたが)実際は「そこに山があるから」ではなく「エベレストがあるから」と答えたのだそうです。マルローはエベレストの初登頂を目指していて、当時、初登頂は国威発揚のための英雄的な行為でした。「山があるから」と「エベレストがあるから」とでは、意味合いがまったく違ってきます。マルローの「エベレストがあるから」という発言の裏には、今のオリンピックと同じようなナショナリズムと結びついた登攀思想(初登頂主義)があるのです。そういった帝国主義的な発想の所産でもあった登攀思想の意図を隠蔽し、哲学的な意味合いを持たせてカムフラージュするために、発言が歪曲(意訳)されたのだと思います。
つらつら考えるに、私が山に登る理由は、まずなんと言っても年齢的な体力の衰えに対する焦りが大きいように思います。ある年齢に達すると、自分はこんな歩き方をしていたのかと、自分の歩き方に違和感を抱くようになりました。筋力の衰えによって、歩き方にも微妙に変化が訪れたからでしょう。特に、階段を下りるときが顕著でした。いつの間にか下りることに過分に神経を使っている自分がいました。
登山というのは、整備されてない山道(トレイル)を歩くことなので、登山によって自分の歩き方に対する違和感を少しでも拭いたいという気持があるように思います。もちろん、健康に対する不安もあるでしょう。山に行ったからと言って、病気にならないという保障はありませんが、山に行って身体を鍛えれば病気から遠ざかることができるのではないかという”信仰”も心の底にあるように思います。
だから、山に行って筋肉痛になるのは、自分にとってはうれしいことでもあるのです。筋肉痛なんて若いときの話だと思っていたので、この年で筋肉痛になるのはいくらか若くなったような幻想さえ抱かせるのでした。
二つ目は、言うまでもなく日常からの逃避です。以前(もう13年前)、このブログで田口ランディの「空っぽになれる場所」という記事を書きましたが、山に行くことで空っぽになりたいという気持もあります。
何度も言いますが、電車が来てもいないのにホームへの階段を駆け下りて行くサラリーマンやOLたち。そうやっていつも資本が強いる”時間”(=資本の回転率)に追われ、その強迫観念の中で生きているサラリーマンやOLたち。しかも、それがこの社会で誠実に生きる証しだみたいなイデオロギーさえ付与されるのです。しかし、彼らの先に待っているのは、過労死かメンヘラかリストラでしょう。
この社会で生きる限り、そんな”誠実に生きるイデオロギー”から逃れることはできません。でも、一時でもいいから逃れたい、ストレスを解消したいという気持も当然あります。だからこそ、山に来てまでコースタイム(時間)にこだわったり、他人に対する競争心をひけらかす者たちを軽蔑したくなるのです。
三つ目は、子どもの頃に見た風景をもう一度見たいという気持です。言うなれば、望郷の念とないまざった過去への憧憬です。その中には、一緒に山に登った父親との思い出も含まれています。子どもの頃、いつも視界の中にあったくじゅう=久住の山々。木漏れ日や草いきれ。風で木の葉がこすれる音。小鳥や森の動物たちの鳴き声。そんなものが、胸にせまってくるほどなつかしく思い出されることがあります。元気なうちに父親と一緒に登った山にもう一度登りたいという気持は、年を取れば取るほど募って来るのでした。
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空っぽになれる場所
よく山で会った人から、日帰りで山に行くのに、5千円の予算で納めるようにしているという話を聞きますが、私の場合、5千円ではとても納まりません。
昨日の大岳山に行ったときも、1万5千円おろして出かけたのですが、帰ってきて財布に残っていたのは2千円でした。パスモに5千円チャージしたのですが、残金は400円になっていました。このように交通費もバカにならないのです。私鉄に比べて割高なJRやバスを利用することが多いからでしょう。
これで月に3回から4回山に行くと、結構な出費になります。それ以外に、ちょくちょく用具を買い替えたりすると、山登りは贅沢な趣味の部類に入ると言っても過言ではないのです。
今は違いますが、昔は、山登りはインテリのスポーツと言われていました。私は、山登りの“拠点”でもあった九州のくじゅう連山の麓の温泉場で育ちましたが、たしかに昔は登山客はインテリが多かったように思います。ちなみに、くじゅう=久住で初めての遭難者は、九大(旧九州帝大)の医学部の学生のパーティです。
余談ですが、よくくじゅう=久住を「九重」と書きますが、あれは間違いです。深田久弥も九重山と書いていましたが、九重山なんてありません。正確には久住山です。久住山の麓にあるのは久住町で、九重町ではありません。くじゅう=久住連山の反対側(今は、九州横断道路ができて交通の便がよくなったので、“表側”のようになってますが)に九重町がありますが、あれは「くじゅうまち」ではなく「ここのえまち」です。
だから、私などは、山と高原地図で「九重山」と記載されているのを見ると、つい「ここのえやま」と読んでしまいます。もちろん、そんな山はありません。
また、くじゅう=久住で人気がある坊がつるや法華院温泉も、住所は竹田市(旧直入郡)久住町有氏です。九重町ではないのです。くじゅうの南口の登山口も、久住町有氏です。昔は、坊がつるや法華院温泉は山を越えて行くところだったのです。父親と一緒に久住連山の大船山に登ったときも、頂上から「あれが法華院で、その向こうが坊がつるだ」と教えてもらったことを覚えています。みんな、山を越えて、登山口と同じ町内の法華院や坊がつるに行っていたのです。坊がつると言えば、「坊がつる賛歌」が有名ですが、あの歌はもともと広島の高等師範(現広島大学教育学部)の山岳部の部歌を九大の山岳部が替え歌にして歌っていたもので、そこにも登山がインテリのスポーツであったことが伺えるのでした。
どうして、くじゅう=久住が九重になったのか。くじゅうが従来からあった阿蘇国立公園に入ることになったとき、新しい呼称を協議にするのに、山の反対側の(旧玖珠郡)九重町が「オレたちも『くじゅう』だ」と言い出したのでした。さらに、政治力を使って強引に「くじゅう」であることを主張したのでした。それまでの呼称に従えば、「阿蘇久住国立公園」になるはずでしたが、それに九重町が異を唱えたのでした。
うちの親たちも「そんなバカな話があるか」とひどく憤慨していましたが、しかし、九重側の政治力が功を奏して、折衷案として久住をひらがなで表記することになり、「阿蘇くじゅう国立公園」に決定したのでした。それが間違いのもとで、以後、徐々に「くじゅう」が「九重」に代わり、今のような「九重山」「九重連山」などというありもしない山名がまかりとおるようになったのです。
話が脇道に逸れましたが、登山がインテリのスポーツであったのは、それだけお金がかかるからという事情もあったでしょう。それと、登山と地質学や植物学や地理学や医学が切っても切れない関係にあったので、そういった学問的な関心を入口にしてインテリの間で登山が盛んになったという一面もあるのかもしれません。
イギリスの登山家ジョージ・マルローが、「どうして山に登るのか?」と問われて答えた(と言われる)、「そこに山があるから」ということばは人口に膾炙され有名になりましたが、(本多勝一氏も著書で書いていましたが)実際は「そこに山があるから」ではなく「エベレストがあるから」と答えたのだそうです。マルローはエベレストの初登頂を目指していて、当時、初登頂は国威発揚のための英雄的な行為でした。「山があるから」と「エベレストがあるから」とでは、意味合いがまったく違ってきます。マルローの「エベレストがあるから」という発言の裏には、今のオリンピックと同じようなナショナリズムと結びついた登攀思想(初登頂主義)があるのです。そういった帝国主義的な発想の所産でもあった登攀思想の意図を隠蔽し、哲学的な意味合いを持たせてカムフラージュするために、発言が歪曲(意訳)されたのだと思います。
つらつら考えるに、私が山に登る理由は、まずなんと言っても年齢的な体力の衰えに対する焦りが大きいように思います。ある年齢に達すると、自分はこんな歩き方をしていたのかと、自分の歩き方に違和感を抱くようになりました。筋力の衰えによって、歩き方にも微妙に変化が訪れたからでしょう。特に、階段を下りるときが顕著でした。いつの間にか下りることに過分に神経を使っている自分がいました。
登山というのは、整備されてない山道(トレイル)を歩くことなので、登山によって自分の歩き方に対する違和感を少しでも拭いたいという気持があるように思います。もちろん、健康に対する不安もあるでしょう。山に行ったからと言って、病気にならないという保障はありませんが、山に行って身体を鍛えれば病気から遠ざかることができるのではないかという”信仰”も心の底にあるように思います。
だから、山に行って筋肉痛になるのは、自分にとってはうれしいことでもあるのです。筋肉痛なんて若いときの話だと思っていたので、この年で筋肉痛になるのはいくらか若くなったような幻想さえ抱かせるのでした。
二つ目は、言うまでもなく日常からの逃避です。以前(もう13年前)、このブログで田口ランディの「空っぽになれる場所」という記事を書きましたが、山に行くことで空っぽになりたいという気持もあります。
何度も言いますが、電車が来てもいないのにホームへの階段を駆け下りて行くサラリーマンやOLたち。そうやっていつも資本が強いる”時間”(=資本の回転率)に追われ、その強迫観念の中で生きているサラリーマンやOLたち。しかも、それがこの社会で誠実に生きる証しだみたいなイデオロギーさえ付与されるのです。しかし、彼らの先に待っているのは、過労死かメンヘラかリストラでしょう。
この社会で生きる限り、そんな”誠実に生きるイデオロギー”から逃れることはできません。でも、一時でもいいから逃れたい、ストレスを解消したいという気持も当然あります。だからこそ、山に来てまでコースタイム(時間)にこだわったり、他人に対する競争心をひけらかす者たちを軽蔑したくなるのです。
三つ目は、子どもの頃に見た風景をもう一度見たいという気持です。言うなれば、望郷の念とないまざった過去への憧憬です。その中には、一緒に山に登った父親との思い出も含まれています。子どもの頃、いつも視界の中にあったくじゅう=久住の山々。木漏れ日や草いきれ。風で木の葉がこすれる音。小鳥や森の動物たちの鳴き声。そんなものが、胸にせまってくるほどなつかしく思い出されることがあります。元気なうちに父親と一緒に登った山にもう一度登りたいという気持は、年を取れば取るほど募って来るのでした。
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