以前、東京支局に勤務する西日本新聞の記者が、東京の“痛勤”電車に対する違和感を書いた記事を紹介したことがありますが、先日、「BUSINESS INSIDER JAPAN」というサイトにも似たような記事が掲載されていました。

BUSINES INSIDER JAPAN
「日本人はなぜ席を譲らない?」とツイートしたら「レディーファーストって意味不明」と猛反発された

尚、Yahoo!ニュースに掲載されていた西日本新聞の記者の記事は、既に削除されています。私がブログに書いた関連記事は以下のとおりです。

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座席を譲る以前の問題として、下記のような「椅子取りゲーム」は私たちが日常目にする光景です。私たちにとっては、もう当たり前の光景にすらなっています。

日本に帰るたびに気になるのが、電車が到着するや我先にと椅子取りゲームのように小走りに席を取り、座った途端に目をつむる(またはスマホの画面に釘付けになり、周りで何が起きているかを全く見ていない)人がとても多いと感じる。優先席に若者が平気で座っていたりもする。


ニューヨーク在住の筆者によれば、ニューヨークの人たちも東京の人たちと同じように、みんな忙しく「自分のことで精一杯だし、他人のことにあまり関心はない」けど、それでもニューヨークでは「おせっかい」だと思われるくらい他人に親切で、「自分より体力のなさそうな人たち」がいると「反射的に」立ち上がって席を譲ろうとする人が多いそうです。

私は、よく「電車の座席に座ることが人生の目的のような人たち」とヤユしていますが、東京の電車の中の光景が日本人のセコさや卑屈さを表しているのは間違いないでしょう。

資本主義は、言うまでもなく利潤の獲得と拡大再生産の循環運動で駆動されており、資本主義社会は、そのための効率第一の競争原理に基づいた社会ですが、電車が来てもないのにホームへの階段を駆け下りて行く人々や電車のドアが開くのももどかしく我先に座席に座ろうと「椅子取りゲーム」を演じる人々は、資本主義社会の競争原理に身も心も冒された「ほとんどビョーキのような」人々と言っても言いすぎではないでしょう。そうしないと「人生に勝てない」と思っているのでしょう。常にそういった強迫観念に苛められているのだと思います。

「自分より体力がない人たち」に席を譲るのは、欧米だけでなく、中国や台湾やベトナムなどアジアの国々でもよく目にする光景だそうです。私も前に、箱根のバスの車内で、年上の人に積極的に席を譲ろうとするアジアの若い観光客のことを書いたことがありますが、あれは「日本に気を使っている」のではなく、彼らの日常に存在するごく普通の行為だったのでしょう。

韓国人の知り合いによれば、もともと韓国は目上の人(年長者)を敬う儒教の影響が強いので、若者が年長者に席を譲る行為はよく見られるそうです。ただ、年長者の中には、自分たちが優遇されるのは当然だと言わんばかりに列に並ばなかったり、平気で割り込んだり人も多いそうです。一方、目上の人(年長者)を敬うべしと言いながら、年金制度は日本に比べても遅れているそうで、そのため惨めな老後を送らざるを得ない高齢者も多く、ホントに韓国社会が儒教の教えに忠実かどうかは怪しいと言ってました。

それは、「日本人はなぜ席を譲らない?」というツイートに対して、レディーファーストって何?と「猛反発」したネット民の反応も似たようなものがあるのかもしれません。

朝の通勤電車は、身障者や年寄りや妊婦が乗ることが少ないので、優先席はあってないようなものだすが、優先席に座っている人たちを見ると、女性が多いのに気付くはずです。女性専用車両以外でも女性の図々しさは結構幅を利かせているのです。また、日中の優先席に座っているのも、私が見る限り、女性が目立ちます。まして、あの中高年のおばさんたちの傍若無人なふるまいに、眉をひそめたくなる人も多いでしょう。

ツィートに反発したネット民たちは、女性=弱い人ではないと言いたかったのかもしれません。あるいは、男女雇用機会均等法や男女共同参画社会の精神からすれば、レディーファーストというのはおかしいではないか、男女平等と矛盾しているのではないかと単純に考えているのかもしれません。

もちろん、日本では、男女雇用機会均等法や男女共同参画社会の精神とは程遠い現実があることは事実でしょう。また、女性だけでなくハンディを背負った人たちに対して、「人間性が麻痺」したような冷たい現実があることも否定できないでしょう。

でも、一方で、レディーファーストだけでは解釈できない現実があることも事実なのです。もしかしたら、図々しいことしか取り柄がないようなおばさんたち(だけでなく若い女性にも多いけど)をどう見るかという問題から考えていくことも、案外大事なのかもしれません。バカバカしい話だけど、バカバカしいと一蹴できない問題を含んでいるのかもしれないのです。

バカのひとつ覚えのように「ニッポン、凄い!」と自演乙するしか能がない人間たちのアホらしさもさることながら、私たちの目の前にある現実は、「言語化すること」よりももっと「大切」なものを示していることも忘れてはならないのです。言語は万能ではないのです。


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2020.01.05 Sun l 社会・メディア l top ▲