新宿~立川~武蔵五日市~人里(へんぼり)バス停~人里峠~【浅間領】~時坂(とっさか)峠~払沢の滝入口バス停
※山行時間:4時間30分
※山行距離:8キロ
※標高差:409m
※山行歩数:24000歩
※交通費:2265円
昨日、奥多摩の浅間嶺に登りました。
新宿から6時48分発のJR中央線中央快速高尾行きで立川、立川からJR青梅線五日市行きで武蔵五日市。五日市駅に着いたのは7時59分で、これもいつものコースです。
前に、笹尾根を繋いだのでしばらく武蔵五日市に行くことはないだろうと書きましたが、ゆっくり山を歩きたいと思ったとき、やはり思い付いたのは武蔵五日市駅から登る山でした。それで、前言を翻してまた武蔵五日市駅に向かったのでした。
浅間嶺は、笹尾根と同じ檜原街道沿いの浅間尾根にあるピークです。笹尾根にはいくつかのピークがありますが、浅間尾根の場合は浅間嶺が唯一のピークです。
笹尾根と浅間尾根は、檜原街道沿いのバス停が共通しており、簡単に言えば、バス停を降りて進行方向の左に登れば笹尾根で、右に登れば浅間尾根です。浅間尾根のピークはひとつしかないので、浅間尾根はどのバス停から登っても、めざすのは浅間嶺になります。私は、人里(へんぼり)のバス停から登りました。
武蔵五日市駅から人里までは、バスで50分かかります。しかし、駅に着いても、バスの時間まで1時間待たなければなりません。これもいつものことです。
駅前のコンビニで行動食のチョコレートと昼食のサンドイッチなどを買って、バス停のベンチに座ってバスを待つことにしました。武蔵五日市駅の場合、待合室がないのでバス停のベンチに座って待つしかないのです。
バス停のベンチには、既に3人の60代くらいの女性が座っていました。3人とも登山の恰好をしており、私が乗ってきたのと同じ電車で来たみたいです。おそらく女性たちも浅間嶺に登るのだと思います。
横で話しているのを聞くと、どうやら団体(グループ)で登るようで、同行者たちは次の電車でやって来るみたいです。平日は定期便の1台で充分ですが、これが週末になると100人以上が行列を作り、臨時バスも出ます。浅間嶺はアクセスがよくて、しかも登りやすいので、特に中高年の登山者に人気なのです。
8時半近くになると、次の電車で来た人たちがバス停にやって来ました。その中には、女性たちの同行者もいました。やはり60~70代の既にリタイアしたとおぼしき男性ばかりで5人いました。これもよくあることですが、男性たちは列の後ろに並ばないで、先頭にいる女性たちのところでおしゃべりをしていました。私のうしろには、既に20人近くが並んでいました。
私のうしろでは、温泉にでも行くのか、かなり高齢の男性がやって来て、「ベンチに座らせてもらえませんか」と言っていました。それで、ベンチに座っていた人たちが間を詰めていました。しかし、先頭のグループはそんなことはおかまいなしにおしゃべりに興じていました。
それにしても、山に来る団体の中高年女性たちはどうしていつもこんなにハイテンションなのだろうと思います。年甲斐もなくと言ったら叱られるかもしれませんが、キャーキャー言いながら大声でお喋りに夢中です。男性たちにとって、そんな女性たちはマドンナのような存在なのか、話の中心はいつも女性たちのことでした。
しかし、男性たちも、登山者にありがちな「オレ、凄いだろう」式の自己誇示も忘れないのです。「あの✕✕山はきつかったわ」と女性が言うと、「あんなもんはたいしたことない」と男性。「あんな山は、コースタイムの0.7くらいで充分だ」と言ってましたが、「お前、ヤマレコか」と突っ込みたくなりました。
やがてバスが来ました。ところが、先頭の女性のところにいた男性たちも、女性につづいてバスに乗り始めたのです。それで、私は、「お前たち、みんなが並んでいるのがわらないのか」「山に行く人間で、そのくらいのマナーも守れないのか」と言いました。すると、まだバスに乗ってない人間は、びっくりした様子で足を止めていました。
週末だとバス会社の人間が出てきて、カラーコーンを並べて整列乗車を呼び掛けるのでまだマシですが、平日はこのような光景はめずらしくないのです。
ネットに中高年登山禁止条例を作ってくれないかなという書き込みがありましたが、集団心理もあるのか、団体の登山者のマナーがよくないのはたしかです。ホントに中高年団体登山禁止条例を作ってもらいたいほどです。
警察が発表する年代別の遭難者のデータによれば、遭難者は70代がいちばん多いそうです。数年前までは60代が一番多かったけど、登山者が年を取り、中心の年齢層が60代から70代に移ったのに伴って、遭難者も70代が一番多くなったそうです。と言うことは、あと10年もすればマナーの悪い団体客は自然淘汰されるのです(そのはずです)。
運の悪いことに、このグループは帰りのバスでも一緒でした。払沢の滝(ほっさわのたき)入口のバス停まで下りて、ついでに払沢の滝を見に行ったときでした。滝はバス停から15分くらい歩かなければなりません。滝の近くまで行って、岩に乗って写真を撮っているときでした。足場が悪いので、ひとりつづ順番に写真を撮るような暗黙のルールがあるにもかかわらず、私のすぐ横に来てカメラを構えている高齢の男性がいました。見ると、ザックを背負って登山の恰好をしていました。
写真を撮り終えて横の石段に戻ろうとしても、男性がすぐ横に立っているので戻ることもできません。それに、男性がバランスを崩すと私も巻き添えを食って下の岩場に落ちる危険性さえあります。しかし、男性は私のことなどお構いなしにカメラを構えています。
「ちょっとのいてもらいますか?」と言っても、知らん顔です。それで、再度強い口調で「のいてもらえるかな」と言ったら、やっと石段に戻って行ったのでした。
男性を見ると、石段から滝つぼの脇に下りる際も、石段が狭いにもかかわらず、下から登って来る人がいても、「のけ」と言わんばかりに強引に下りて行くのでした。下から登ってくる人たち(大半は若い人たち)は、石段の横に設置された鎖を握って身体を横向きにしてよけていました。「なんだ、あの爺さんは」と思って見ていたら、下でキャーキャー言いながら男性たちを待っていた女性に見覚えがありました。朝のあのグループだったのです。
私がバスを降りるとき、彼らはまだバスに乗っていましたので、先にある浅間尾根登山口のバス停あたりから登ったのでしょう。そして、私と同じように払沢の滝に下りて来たのでしょう。マナーの悪い連中は、どこに行ってもマナーが悪いんだなと思いました。中高年向けの登山サークルのサイトに、「ナンパ目的で入会する方へ」という注意書きがあったことを前に書きましたが、もしかしたらマドンナ(と言っても60すぎの婆さん)が一緒なので、爺さんたちも気分が高揚して分別を失っているのかもしれません。顰蹙を買うかもしれませんが、なんだか“老人ホームの恋“を連想しました。
それに比べると、浅間嶺の展望台で会った高齢の夫婦は対照的でした。展望台に行くと、とっくに70を越えているような高齢の夫婦が望遠鏡で遠くの山を見ていました。そして、二人で手元の地図と見比べながら「山座同定」をしていました。何度もその作業をくり返していて、如何にも山に来たことを楽しんでいるといった感じでした。
私がベンチで昼食のサンドウィッチを食べていたら、「お先に」と言って、二人は払沢の滝方面に歩いて行きました。しかし、少し歩くとまた立ち止まって、二人で奥多摩の山塊を指差してなにやら話をしていました。
ハイキングとしては、こっちの方がよほど「健全」に見えますし、山歩きの本来の姿があるように思います。ヤマレコやヤマップの影響なのか、中高年の中には同じ山に何度も登って、コースタイムがどうのと自慢するような人たちが多いのですが、その背景にあるのは「オレはいつまでも若いんだ」という誇示と自己承認を求める気持でしょう。おまかせ登山のおばさん相手にお山の大将になりたがる心性も同じなのだと思います。
人里バス停から浅間嶺までは3キロ弱、浅間嶺から払沢の滝までは6キロくらいでした。登りは休憩を除けば1時間半くらいで、払沢の滝バス停までの下りは、2時間弱でした。久し振りの軽めの登山で、その分余裕を持って山を楽しむことができました。
帰りは、いつものように武蔵五日市から拝島、拝島から八高線で八王子、八王子から横浜線で帰ってきました。武蔵五日市を出たのが午後4時前だったということもあって、電車は空いており、今回もずっと座って帰ることができました。
不思議なのですが、山に行っている間は花粉症の症状がまったく出ないのです。昨日は、春を思わせるようなポカポカ陽気でしたが、くしゃみをしたり目がしょぼしょぼしたりとか、そんなことはまったくありませんでした。ところが、帰宅して夜になるとくしゃみが出たり、目が痒くなったりするのです。前回の本仁田山に行ったときもそうでしたが、たぶん街中のようにアスファルトに落ちた花粉が舞い上がることがないからかもしれません。
※サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

人里バス停。

浅間尾根登山口へ。

登山口は民家の脇から入ります。

登山口に入り上から見たところ。登山口までのアスファルトの坂道がきつかった。

登山口に入りうしろを振り返る。

登る途中にあった祠。

ふと見上げると民家が・・・・。

テレビの「ポツンと一軒家」で紹介された民家でした。しかし、今は無人です(敷地内は自由に見学できます)。

庭の奥にある400年前から出ているという湧き水。とてもおいしかった。水筒を持って来なかったことを後悔しました。実家の水道も天然の湧き水でしたので、田舎を思い出しました(このルートを登るなら、水筒は必携です)。





尾根に着きました。時間にして約1時間。

ここからは尾根筋を歩きます。

見晴らしのいいところに出ました。奥多摩の山塊が一望できました。しばらく立ち止まって見入ってしまいました。

御前山。

大岳山。



見晴らしのいい尾根道。

浅間嶺休憩所の東屋。『奥多摩風土記』(大舘勇吉著・有峰書店新社)には、「浅間嶺(略)の嶺上に近い所に浅間神社の祠があり、明治の頃までお堂と五輪塔がありました」と書いていましたが、たぶんこの場所だったと思われます。お堂と五輪塔は「仙元社」と呼ばれ、尾根の麓にある下川乗(しもかわのり)地区の古民家に保存されていた絵地図には、天正10年(1582年)武田氏滅亡の際に武田勝頼の最期に準じた家臣や女中を祀っていたことが記されているそうです。武田信玄の四女の松姫が武田家滅亡の際、甲斐の国(今の山梨県)から八王子へ逃亡する際に、浅間尾根でひと息ついて、「郷国の霊山富士の見えるここから兄勝頼に殉じた人々の手向けを行なったものでしょう」、と『奥多摩風土記』には書いていました。

はじめて会ったハイカー。このあと展望台に登ったら、休憩していました。

展望台の山頂標識。浅間嶺の最高標高地点は展望台ではないのですが、実際は展望台が山頂のような扱いになっています。

展望台からの眺望。



展望台には3人の先客がいました。このあと女性の2人組が登って来ました。

展望台をあとにして払沢(ほっさわ)の滝バス停までの下り。



このような石ころだらけの道もありました。


峠を下る途中にあった蕎麦屋。この蕎麦屋も「ポツンと一軒家」で紹介されたそうです。そのあと閉店したと聞いていました。しかし、看板を見ると、12月~3月は冬季休業で、4月~11月は営業しているようです。


このあたりの「関東ふれあいの道」は、「甲州古道」と呼ばれていますが、明治時代までの甲州街道です。明治時代までは「駄馬道」で、今の「払沢の滝入口」のバス停横の坂道を登り、このように浅間尾根を越え、小菅から大菩薩峠を越えて塩山に下っていたのです。現代の私たちは、その一部をザックを背負い登山靴を履いたご大層な恰好でヒーヒー息を切らして歩いているのです。

林道の途中にあった大山祇(おおやまつみ)神社。山の神様で各地にあります。今も奥多摩の山林が東京の水源地として保護されているように、山の神ということは水源・水利の神でもあり、山から恵みを得ていた地域の人たちに信仰されていました。

大山祇神社の下には、閉店した「峠の茶屋」の建物がありました。

上記の蕎麦屋は、峠の茶屋の本家でもあったのでしょうか?

前の駐車場からも絶景が広がります。

商店の窓ガラスに貼ってあった「東京のスイス」檜原村の観光地図。そう言えば、私も子どもの頃、冗談半分で自分の田舎を「九州のスイス」と呼んでいました。

遠くに都心のビル群も見えました。

下る途中の分岐で、鎖で閉鎖されていた「車両通行止め」の方の林道を進むと、時坂(とっさか)峠に着きました。

時坂(とっさか)峠から急坂の登山道を下ります。

降り口に「危険」と注意書きがあった崩落箇所。思ったより危険ではありませんでした。

払沢の滝に行く途中にあった雑貨店。昔の郵便局の建物を利用しているそうです。

払沢の滝。

※山行時間:4時間30分
※山行距離:8キロ
※標高差:409m
※山行歩数:24000歩
※交通費:2265円
昨日、奥多摩の浅間嶺に登りました。
新宿から6時48分発のJR中央線中央快速高尾行きで立川、立川からJR青梅線五日市行きで武蔵五日市。五日市駅に着いたのは7時59分で、これもいつものコースです。
前に、笹尾根を繋いだのでしばらく武蔵五日市に行くことはないだろうと書きましたが、ゆっくり山を歩きたいと思ったとき、やはり思い付いたのは武蔵五日市駅から登る山でした。それで、前言を翻してまた武蔵五日市駅に向かったのでした。
浅間嶺は、笹尾根と同じ檜原街道沿いの浅間尾根にあるピークです。笹尾根にはいくつかのピークがありますが、浅間尾根の場合は浅間嶺が唯一のピークです。
笹尾根と浅間尾根は、檜原街道沿いのバス停が共通しており、簡単に言えば、バス停を降りて進行方向の左に登れば笹尾根で、右に登れば浅間尾根です。浅間尾根のピークはひとつしかないので、浅間尾根はどのバス停から登っても、めざすのは浅間嶺になります。私は、人里(へんぼり)のバス停から登りました。
武蔵五日市駅から人里までは、バスで50分かかります。しかし、駅に着いても、バスの時間まで1時間待たなければなりません。これもいつものことです。
駅前のコンビニで行動食のチョコレートと昼食のサンドイッチなどを買って、バス停のベンチに座ってバスを待つことにしました。武蔵五日市駅の場合、待合室がないのでバス停のベンチに座って待つしかないのです。
バス停のベンチには、既に3人の60代くらいの女性が座っていました。3人とも登山の恰好をしており、私が乗ってきたのと同じ電車で来たみたいです。おそらく女性たちも浅間嶺に登るのだと思います。
横で話しているのを聞くと、どうやら団体(グループ)で登るようで、同行者たちは次の電車でやって来るみたいです。平日は定期便の1台で充分ですが、これが週末になると100人以上が行列を作り、臨時バスも出ます。浅間嶺はアクセスがよくて、しかも登りやすいので、特に中高年の登山者に人気なのです。
8時半近くになると、次の電車で来た人たちがバス停にやって来ました。その中には、女性たちの同行者もいました。やはり60~70代の既にリタイアしたとおぼしき男性ばかりで5人いました。これもよくあることですが、男性たちは列の後ろに並ばないで、先頭にいる女性たちのところでおしゃべりをしていました。私のうしろには、既に20人近くが並んでいました。
私のうしろでは、温泉にでも行くのか、かなり高齢の男性がやって来て、「ベンチに座らせてもらえませんか」と言っていました。それで、ベンチに座っていた人たちが間を詰めていました。しかし、先頭のグループはそんなことはおかまいなしにおしゃべりに興じていました。
それにしても、山に来る団体の中高年女性たちはどうしていつもこんなにハイテンションなのだろうと思います。年甲斐もなくと言ったら叱られるかもしれませんが、キャーキャー言いながら大声でお喋りに夢中です。男性たちにとって、そんな女性たちはマドンナのような存在なのか、話の中心はいつも女性たちのことでした。
しかし、男性たちも、登山者にありがちな「オレ、凄いだろう」式の自己誇示も忘れないのです。「あの✕✕山はきつかったわ」と女性が言うと、「あんなもんはたいしたことない」と男性。「あんな山は、コースタイムの0.7くらいで充分だ」と言ってましたが、「お前、ヤマレコか」と突っ込みたくなりました。
やがてバスが来ました。ところが、先頭の女性のところにいた男性たちも、女性につづいてバスに乗り始めたのです。それで、私は、「お前たち、みんなが並んでいるのがわらないのか」「山に行く人間で、そのくらいのマナーも守れないのか」と言いました。すると、まだバスに乗ってない人間は、びっくりした様子で足を止めていました。
週末だとバス会社の人間が出てきて、カラーコーンを並べて整列乗車を呼び掛けるのでまだマシですが、平日はこのような光景はめずらしくないのです。
ネットに中高年登山禁止条例を作ってくれないかなという書き込みがありましたが、集団心理もあるのか、団体の登山者のマナーがよくないのはたしかです。ホントに中高年団体登山禁止条例を作ってもらいたいほどです。
警察が発表する年代別の遭難者のデータによれば、遭難者は70代がいちばん多いそうです。数年前までは60代が一番多かったけど、登山者が年を取り、中心の年齢層が60代から70代に移ったのに伴って、遭難者も70代が一番多くなったそうです。と言うことは、あと10年もすればマナーの悪い団体客は自然淘汰されるのです(そのはずです)。
運の悪いことに、このグループは帰りのバスでも一緒でした。払沢の滝(ほっさわのたき)入口のバス停まで下りて、ついでに払沢の滝を見に行ったときでした。滝はバス停から15分くらい歩かなければなりません。滝の近くまで行って、岩に乗って写真を撮っているときでした。足場が悪いので、ひとりつづ順番に写真を撮るような暗黙のルールがあるにもかかわらず、私のすぐ横に来てカメラを構えている高齢の男性がいました。見ると、ザックを背負って登山の恰好をしていました。
写真を撮り終えて横の石段に戻ろうとしても、男性がすぐ横に立っているので戻ることもできません。それに、男性がバランスを崩すと私も巻き添えを食って下の岩場に落ちる危険性さえあります。しかし、男性は私のことなどお構いなしにカメラを構えています。
「ちょっとのいてもらいますか?」と言っても、知らん顔です。それで、再度強い口調で「のいてもらえるかな」と言ったら、やっと石段に戻って行ったのでした。
男性を見ると、石段から滝つぼの脇に下りる際も、石段が狭いにもかかわらず、下から登って来る人がいても、「のけ」と言わんばかりに強引に下りて行くのでした。下から登ってくる人たち(大半は若い人たち)は、石段の横に設置された鎖を握って身体を横向きにしてよけていました。「なんだ、あの爺さんは」と思って見ていたら、下でキャーキャー言いながら男性たちを待っていた女性に見覚えがありました。朝のあのグループだったのです。
私がバスを降りるとき、彼らはまだバスに乗っていましたので、先にある浅間尾根登山口のバス停あたりから登ったのでしょう。そして、私と同じように払沢の滝に下りて来たのでしょう。マナーの悪い連中は、どこに行ってもマナーが悪いんだなと思いました。中高年向けの登山サークルのサイトに、「ナンパ目的で入会する方へ」という注意書きがあったことを前に書きましたが、もしかしたらマドンナ(と言っても60すぎの婆さん)が一緒なので、爺さんたちも気分が高揚して分別を失っているのかもしれません。顰蹙を買うかもしれませんが、なんだか“老人ホームの恋“を連想しました。
それに比べると、浅間嶺の展望台で会った高齢の夫婦は対照的でした。展望台に行くと、とっくに70を越えているような高齢の夫婦が望遠鏡で遠くの山を見ていました。そして、二人で手元の地図と見比べながら「山座同定」をしていました。何度もその作業をくり返していて、如何にも山に来たことを楽しんでいるといった感じでした。
私がベンチで昼食のサンドウィッチを食べていたら、「お先に」と言って、二人は払沢の滝方面に歩いて行きました。しかし、少し歩くとまた立ち止まって、二人で奥多摩の山塊を指差してなにやら話をしていました。
ハイキングとしては、こっちの方がよほど「健全」に見えますし、山歩きの本来の姿があるように思います。ヤマレコやヤマップの影響なのか、中高年の中には同じ山に何度も登って、コースタイムがどうのと自慢するような人たちが多いのですが、その背景にあるのは「オレはいつまでも若いんだ」という誇示と自己承認を求める気持でしょう。おまかせ登山のおばさん相手にお山の大将になりたがる心性も同じなのだと思います。
人里バス停から浅間嶺までは3キロ弱、浅間嶺から払沢の滝までは6キロくらいでした。登りは休憩を除けば1時間半くらいで、払沢の滝バス停までの下りは、2時間弱でした。久し振りの軽めの登山で、その分余裕を持って山を楽しむことができました。
帰りは、いつものように武蔵五日市から拝島、拝島から八高線で八王子、八王子から横浜線で帰ってきました。武蔵五日市を出たのが午後4時前だったということもあって、電車は空いており、今回もずっと座って帰ることができました。
不思議なのですが、山に行っている間は花粉症の症状がまったく出ないのです。昨日は、春を思わせるようなポカポカ陽気でしたが、くしゃみをしたり目がしょぼしょぼしたりとか、そんなことはまったくありませんでした。ところが、帰宅して夜になるとくしゃみが出たり、目が痒くなったりするのです。前回の本仁田山に行ったときもそうでしたが、たぶん街中のようにアスファルトに落ちた花粉が舞い上がることがないからかもしれません。
※サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

人里バス停。

浅間尾根登山口へ。

登山口は民家の脇から入ります。

登山口に入り上から見たところ。登山口までのアスファルトの坂道がきつかった。

登山口に入りうしろを振り返る。

登る途中にあった祠。

ふと見上げると民家が・・・・。

テレビの「ポツンと一軒家」で紹介された民家でした。しかし、今は無人です(敷地内は自由に見学できます)。

庭の奥にある400年前から出ているという湧き水。とてもおいしかった。水筒を持って来なかったことを後悔しました。実家の水道も天然の湧き水でしたので、田舎を思い出しました(このルートを登るなら、水筒は必携です)。





尾根に着きました。時間にして約1時間。

ここからは尾根筋を歩きます。

見晴らしのいいところに出ました。奥多摩の山塊が一望できました。しばらく立ち止まって見入ってしまいました。

御前山。

大岳山。



見晴らしのいい尾根道。

浅間嶺休憩所の東屋。『奥多摩風土記』(大舘勇吉著・有峰書店新社)には、「浅間嶺(略)の嶺上に近い所に浅間神社の祠があり、明治の頃までお堂と五輪塔がありました」と書いていましたが、たぶんこの場所だったと思われます。お堂と五輪塔は「仙元社」と呼ばれ、尾根の麓にある下川乗(しもかわのり)地区の古民家に保存されていた絵地図には、天正10年(1582年)武田氏滅亡の際に武田勝頼の最期に準じた家臣や女中を祀っていたことが記されているそうです。武田信玄の四女の松姫が武田家滅亡の際、甲斐の国(今の山梨県)から八王子へ逃亡する際に、浅間尾根でひと息ついて、「郷国の霊山富士の見えるここから兄勝頼に殉じた人々の手向けを行なったものでしょう」、と『奥多摩風土記』には書いていました。

はじめて会ったハイカー。このあと展望台に登ったら、休憩していました。

展望台の山頂標識。浅間嶺の最高標高地点は展望台ではないのですが、実際は展望台が山頂のような扱いになっています。

展望台からの眺望。



展望台には3人の先客がいました。このあと女性の2人組が登って来ました。

展望台をあとにして払沢(ほっさわ)の滝バス停までの下り。



このような石ころだらけの道もありました。


峠を下る途中にあった蕎麦屋。この蕎麦屋も「ポツンと一軒家」で紹介されたそうです。そのあと閉店したと聞いていました。しかし、看板を見ると、12月~3月は冬季休業で、4月~11月は営業しているようです。


このあたりの「関東ふれあいの道」は、「甲州古道」と呼ばれていますが、明治時代までの甲州街道です。明治時代までは「駄馬道」で、今の「払沢の滝入口」のバス停横の坂道を登り、このように浅間尾根を越え、小菅から大菩薩峠を越えて塩山に下っていたのです。現代の私たちは、その一部をザックを背負い登山靴を履いたご大層な恰好でヒーヒー息を切らして歩いているのです。

林道の途中にあった大山祇(おおやまつみ)神社。山の神様で各地にあります。今も奥多摩の山林が東京の水源地として保護されているように、山の神ということは水源・水利の神でもあり、山から恵みを得ていた地域の人たちに信仰されていました。

大山祇神社の下には、閉店した「峠の茶屋」の建物がありました。

上記の蕎麦屋は、峠の茶屋の本家でもあったのでしょうか?

前の駐車場からも絶景が広がります。

商店の窓ガラスに貼ってあった「東京のスイス」檜原村の観光地図。そう言えば、私も子どもの頃、冗談半分で自分の田舎を「九州のスイス」と呼んでいました。

遠くに都心のビル群も見えました。

下る途中の分岐で、鎖で閉鎖されていた「車両通行止め」の方の林道を進むと、時坂(とっさか)峠に着きました。

時坂(とっさか)峠から急坂の登山道を下ります。

降り口に「危険」と注意書きがあった崩落箇所。思ったより危険ではありませんでした。

払沢の滝に行く途中にあった雑貨店。昔の郵便局の建物を利用しているそうです。

払沢の滝。

