奥多摩の奥の方の山に行きたいなと思います。いわゆる公共交通機関を利用した日帰り登山だと、どうしても行く山が限られてしまいます。同じ日帰りでも、早朝から登ればもっと行く山の範囲が広がるのですが、このブログでも書いているように、横浜の自宅から早朝5時すぎの始発電車に乗っても、実際に山に入ることができるのは早くて8時すぎ、奥の方だと9時半すぎになってしまいます。
公共交通機関を利用した日帰り登山では、(人が多くて意識的に避けている山を除いて)登ることのできる山はもうほとんど登ったと言っていいかもしれません。それで、昔みたいに前泊しようかなと思っています。奥多摩駅の近くに前泊すれば、6時ちょっと過ぎの始発のバスに乗ることができるのです。あるいは、山小屋に泊まって1泊2日で山行するか、どっちかでしょう。
私の田舎でもそうでしたが、昔は今のように車で日帰り登山という発想がなかったし、道路事情も悪く公共交通機関(バス)も便利ではなかったので、山に登るときは前泊するのが当たり前でした。奥多摩でも、奥多摩駅(昔は氷川駅)の近くの日原川沿いに、始発のバスに乗る登山者ご用達の山小屋(旅館)があったそうです。
調べると、私と同じように考えているハイカーがいるみたいで、奥多摩駅の近くにハイカーがよく利用する格安の民宿がありました(おせいじにもキレイだとは言えないと書いていたけど)。
私も子どもの頃、近所の旅館に泊まったハイカー達が早朝薄暗いうちから登山口に向かって歩いて行く姿を見たことがあります。大きなリュックを背負い、列を作ってやや前かがみになりながら、黙々と歩を進めて行くそのうしろ姿が、子ども心にとても印象的でした。
前も書きましたが、我が家は一時、本業とは別にアイスキャンデー屋(つまり、アイスクリームの製造販売)をやっていたことがあり、そのときは夏の登山シーズンになると、山の中腹の休憩場所でアイスキャンデーを売っていました。休憩場所までは馬で運んでいたそうです。
先日、丸山で会った高齢のハイカーの方から、昔の奥多摩の山の話を聞いたら、ますます昔の奥多摩を知りたいと思いました。それで、昔の奥多摩を写した写真がないかと思ってネットを検索したら、下記のサイトが見つかりました。
ロッジ山旅
横山厚夫さんのちょっと昔の山
http://yamatabi.info/yokoyamaindex.html#y1
これは、横山厚夫さんという登山家の方が撮った写真を、山梨県北斗市の「ロッジ山旅」というロッジのオーナーが、みずからのサイトに掲載して公開したものです。こういった写真を公開して残すというのはホントに貴重なことだと思います。
私は、ここに掲載された半世紀前の写真を見ていたら、同じ登山でも今と昔とでは全然違うことを痛感させられました。それは、今、山に登りながずっと抱いている違和感につながるものです。
たとえば、先日登った川苔山の写真などが一目瞭然です。
http://yamatabi.info/yokoyamaq3.html
1963年と言いますから、57年前の川苔山です。今と比べると、同じ山とは思えません。同じ尾根でも、その眺望はまったく違います。今のように植林が行われていなかったので、奥多摩の山の上の方はカヤトが多く、明るい道だったのです。真ん中の写真には、説明にもあるとおり、山頂下の東の肩にあった売店の建物が写っています。今の東の肩は樹林帯を登った上に忽然と現れる休憩場所といった感じですが、昔は遠くからも目印になるような開けた尾根の上にあったのです。
いちばん下の獅子口小屋の写真ですが、丸山で会った高齢のハイカーが話していたのは、この獅子口小屋のことかも知れません。一度、小屋跡を訪ねてみたいけど、獅子口小屋跡に行く大丹波川沿いの林道が台風19号の後遺症で通行止めになっているため、今は行くことができません(昨秋の台風19号の奥多摩の被害は甚大で、今も多くの登山道が通行止めになっています)。
昔の登山道は、このように開けた明るい道が多かったのです。特に尾根道はそうでした。
私の田舎は、家の外に出ると、いつも背後に久住連山(「くじゅう連山」「九重連山」というのは最近の呼び方で間違い)が聳えていましたが、三つの山の中でいちばん右手にあった黒岳だけが登山者が少なく人気がありませんでした。どうしてかと言えば、黒岳は原生林に覆われた山で、見通しが悪く登山道が暗かったからです。
昔の登山は、眺望が開けた明るい道を歩くのが普通だったのです。ちなみに、私の田舎の山は植林が行われてないので、今でも昔と変わらない山相が保たれています。
下記の「三国峠、浅間峠」は、ちょうど自粛前の4月に生藤山から笹尾根を歩いて浅間峠を降りたときとまったく同じコースの写真です。
http://yamatabi.info/yokoyamaq1.html
こんなに眺望が開けていたとは信じられないくらいです。途中の熊倉山も「周りの木が育って眺めは少ない」と書いていますが、今と比べると全然明るくて眺望にめぐまれています。
下記の「三国峠越え」のいちばん上の写真は、佐野川峠から甘草水を経て三国峠(三国山)までの桜並木の写真だと思われますが、今は植林されたまま放置された樹木に覆われ(しかも、桜の木の多くは病気で花も咲いてない)、まったく違った風景になっています。
http://yamatabi.info/yokoyamaq49.html
御前山も、今は眺望が少ない暗い(地味な)山になっていますが、昔はカヤトと笹の多い明るい山だったことがわかります。
http://yamatabi.info/yokoyamaq15.html
今、奥多摩の山を歩いていると、登りの多くは樹林帯の中の暗い道を歩かねばなりません。眺望もないので、ただ下を向いて歩くだけの苦行のような山登りを強いられるのです。それでは、コースタイムに対して何分速いとか遅いとか、地図のコースタイムと競争しているような、何のために山に登っているのかわからない軽薄な登山者が多くなったのは当然かもしれません。
私は、横山厚夫さんの写真を見て、「そうだったよな、昔の山は明るかったよな~」としみじみ思い、しばし昔を(子どもの頃を)懐かしんだのでした。
公共交通機関を利用した日帰り登山では、(人が多くて意識的に避けている山を除いて)登ることのできる山はもうほとんど登ったと言っていいかもしれません。それで、昔みたいに前泊しようかなと思っています。奥多摩駅の近くに前泊すれば、6時ちょっと過ぎの始発のバスに乗ることができるのです。あるいは、山小屋に泊まって1泊2日で山行するか、どっちかでしょう。
私の田舎でもそうでしたが、昔は今のように車で日帰り登山という発想がなかったし、道路事情も悪く公共交通機関(バス)も便利ではなかったので、山に登るときは前泊するのが当たり前でした。奥多摩でも、奥多摩駅(昔は氷川駅)の近くの日原川沿いに、始発のバスに乗る登山者ご用達の山小屋(旅館)があったそうです。
調べると、私と同じように考えているハイカーがいるみたいで、奥多摩駅の近くにハイカーがよく利用する格安の民宿がありました(おせいじにもキレイだとは言えないと書いていたけど)。
私も子どもの頃、近所の旅館に泊まったハイカー達が早朝薄暗いうちから登山口に向かって歩いて行く姿を見たことがあります。大きなリュックを背負い、列を作ってやや前かがみになりながら、黙々と歩を進めて行くそのうしろ姿が、子ども心にとても印象的でした。
前も書きましたが、我が家は一時、本業とは別にアイスキャンデー屋(つまり、アイスクリームの製造販売)をやっていたことがあり、そのときは夏の登山シーズンになると、山の中腹の休憩場所でアイスキャンデーを売っていました。休憩場所までは馬で運んでいたそうです。
先日、丸山で会った高齢のハイカーの方から、昔の奥多摩の山の話を聞いたら、ますます昔の奥多摩を知りたいと思いました。それで、昔の奥多摩を写した写真がないかと思ってネットを検索したら、下記のサイトが見つかりました。
ロッジ山旅
横山厚夫さんのちょっと昔の山
http://yamatabi.info/yokoyamaindex.html#y1
これは、横山厚夫さんという登山家の方が撮った写真を、山梨県北斗市の「ロッジ山旅」というロッジのオーナーが、みずからのサイトに掲載して公開したものです。こういった写真を公開して残すというのはホントに貴重なことだと思います。
私は、ここに掲載された半世紀前の写真を見ていたら、同じ登山でも今と昔とでは全然違うことを痛感させられました。それは、今、山に登りながずっと抱いている違和感につながるものです。
たとえば、先日登った川苔山の写真などが一目瞭然です。
http://yamatabi.info/yokoyamaq3.html
1963年と言いますから、57年前の川苔山です。今と比べると、同じ山とは思えません。同じ尾根でも、その眺望はまったく違います。今のように植林が行われていなかったので、奥多摩の山の上の方はカヤトが多く、明るい道だったのです。真ん中の写真には、説明にもあるとおり、山頂下の東の肩にあった売店の建物が写っています。今の東の肩は樹林帯を登った上に忽然と現れる休憩場所といった感じですが、昔は遠くからも目印になるような開けた尾根の上にあったのです。
いちばん下の獅子口小屋の写真ですが、丸山で会った高齢のハイカーが話していたのは、この獅子口小屋のことかも知れません。一度、小屋跡を訪ねてみたいけど、獅子口小屋跡に行く大丹波川沿いの林道が台風19号の後遺症で通行止めになっているため、今は行くことができません(昨秋の台風19号の奥多摩の被害は甚大で、今も多くの登山道が通行止めになっています)。
昔の登山道は、このように開けた明るい道が多かったのです。特に尾根道はそうでした。
私の田舎は、家の外に出ると、いつも背後に久住連山(「くじゅう連山」「九重連山」というのは最近の呼び方で間違い)が聳えていましたが、三つの山の中でいちばん右手にあった黒岳だけが登山者が少なく人気がありませんでした。どうしてかと言えば、黒岳は原生林に覆われた山で、見通しが悪く登山道が暗かったからです。
昔の登山は、眺望が開けた明るい道を歩くのが普通だったのです。ちなみに、私の田舎の山は植林が行われてないので、今でも昔と変わらない山相が保たれています。
下記の「三国峠、浅間峠」は、ちょうど自粛前の4月に生藤山から笹尾根を歩いて浅間峠を降りたときとまったく同じコースの写真です。
http://yamatabi.info/yokoyamaq1.html
こんなに眺望が開けていたとは信じられないくらいです。途中の熊倉山も「周りの木が育って眺めは少ない」と書いていますが、今と比べると全然明るくて眺望にめぐまれています。
下記の「三国峠越え」のいちばん上の写真は、佐野川峠から甘草水を経て三国峠(三国山)までの桜並木の写真だと思われますが、今は植林されたまま放置された樹木に覆われ(しかも、桜の木の多くは病気で花も咲いてない)、まったく違った風景になっています。
http://yamatabi.info/yokoyamaq49.html
御前山も、今は眺望が少ない暗い(地味な)山になっていますが、昔はカヤトと笹の多い明るい山だったことがわかります。
http://yamatabi.info/yokoyamaq15.html
今、奥多摩の山を歩いていると、登りの多くは樹林帯の中の暗い道を歩かねばなりません。眺望もないので、ただ下を向いて歩くだけの苦行のような山登りを強いられるのです。それでは、コースタイムに対して何分速いとか遅いとか、地図のコースタイムと競争しているような、何のために山に登っているのかわからない軽薄な登山者が多くなったのは当然かもしれません。
私は、横山厚夫さんの写真を見て、「そうだったよな、昔の山は明るかったよな~」としみじみ思い、しばし昔を(子どもの頃を)懐かしんだのでした。